帰 神   


大本の開祖となる 出口なお は
明治二十五年旧正月元旦に五十七歳を迎えた。

その日の夜、なおは突然かぐわしい香りにつつまれ
不思議な夢幻の世界へ誘われていった。

たとえようもなく 荘厳美麗 な宮殿に なおはたたずみ
また、その神々しい麗域を歩くうち 尊貴な神々と出会う。

そんな神夢が毎夜続き、神霊の世界へと導かれていった。
それは、帰神にさきだつ前兆のようなものであった。

五日の夜更け、新暦でいうちょうど節分の日に
なおの子で十二歳の りょう と、十歳の すみ は
凍てつくような寒い夜空の下に
母が 井戸端で、一心に水をかぶっているところを見た。

なおは、立ちすくんでいる子らを見ると
いつもの 鈴をふるうような美しくやわらかい声で

「 はやく寝るように 」
とうながした。

出口なおの帰神は、この夜から始まったのである。

帰神の状態になると、
なおは自分の体が ひじょうに重くなり
力が満ちてくるように感じたのであった。

なおの前額は温かくなり、姿勢が正しくなる。
やがて、体がやや反り加減に ゆるゆると振動しはじめる。

あごは引き締まり、眼は輝いてくる感じであった。
そして腹の底から威厳に満ちた大きな声が出始めた。
その声は、 なおの意識しないものであり
声を出すまいと歯を固くくいしばっても
押さえる事が出来なかった。

しかも、その声は男の声である。


いっときの帰神がおわると、なおは
しばらく魂がすっかり脱け出してしまったような
名状しがたい疲労を覚えた。


この帰神は、昼夜をとわず断続しておこり
十三日間は そのはげしさに食事もとれず、
眠ることも ままならなかったという。


なおは、突如として自分にかかった神について
思いなやみ ふり払おうとしたが、
それもかなわないと分かると
あとは、かかってきた神に直接談判するしかない。

なおは その不思議な対象にむかって、
こう問い質している。


「 おん身はなに者でありますかな。
こと細かに名のって下されよ 」


その問いに対し、
かぐわしい霊気とともに下腹の底の方から重々しい
しかも 玉のようなものが昇ってきた。


「 このほうは艮(うしとら)の金神 であるぞよ 」


やはり男の声である。
玉は胸のあたりでふるえ、
呼吸が止まるほど 強い衝動がおこるとともに
唇の周辺が自然に動きだす。

同時に太い、しかし うつくしく妙なる声が
なおの耳に響くのである。

なおの不安はつのる。


「 この身体から ひきとってもらいたい 」


とうったえる。
その願いが聞こえたのか聞こえないのか、神は


「 このほう、これより 汝の身を守るぞよ 」


と、なおを励ましにかかった。

神の方は、もはや待ったなしの感じであった。
そして、神の声は力強く大声で語りだした。


「…天理、金光、黒住、妙霊、先走り、
とどめに艮の金神が現れて世の立替えを致すぞよ。
世の立替えのあるという事は、
どの神柱にも判りて居れども、
どうしたら立替えが出来るという事は判りて居らんぞよ。
九分九厘までは知らしてあるが、
モウ一厘の肝心の事は判りて居らんぞよ…  」 

 

さらにこうも呼ぶ。



「 水晶魂をよりぬいて霊魂(みたま)のあらため致すぞよ。
ぜったいぜつめいの世になりたぞよ。
世界のものよ改心をいたされよ。 世がかわるぞよ… 」

(帰神とは)

  
帰神とは、神がかりの一種ではあるが
俗にいわれる 低俗な神がかりからは
おそろしく かけ離れたものである

のちに大本教祖になる 出口王仁三郎は
全八十一巻におよぶ大著 霊界物語の中で
次の様に述べる。

「 …人間の精霊が直接、大元神すなわち
 主の神に向かって神格の内流を受け、
 大神と和合する状態を帰神といふのである。
 帰神とは、わが精霊の本源なる大神のご神格に
 帰一和合するを謂ふのである。
 ゆえに帰神は、大神の直接内流を受くるによって、
   …もっとも必要なる霊界真相の伝達者である…」
 (第48巻・第一章)

王仁三郎聖師はさらに、帰神の次下段階として

 「 神懸 」 (神の遣いや天使との交流)があり

そのさらに次下段階として

 「 神憑 」 (邪霊、悪霊、動物霊などの憑依)を説いている。

大本開祖の場合は、もっとも尊い帰神とされる。 
  
 

なお 誕生と生い立ち

 

大本開祖となる 『 なお 』 は
幕末の天保七年、京都市福知山に生まれた。

この頃の福知山藩は 財政難にあり
約十万両を 大阪の商人から借り入れたが
そのしわよせは民衆を苦しめ、さらにこの年は
大雨と低温のため大凶作となり米、麦はおろか
すべての食料は獲られず、人々は山野の草木を口にし、
とうとう畳表までも煮て食べたともいう。

この飢饉の中、なおを身ごもった母の「そよ」は
生まれようとする なおを間引(堕胎)こうとしたが、
そよの姑たけ は強く反対した。

かくて、なおは餓えと寒さにおののく
新年間近の 旧十二月十六日に誕生した。

幼少より 貧苦の苦労の中で育ち、早くに父を亡くして
母も病身だったため、
なおは十歳と僅かにして奉公に出る。

奉公先では
骨身をおしまず働き、夜には糸紡ぎの内職にも励んだ。

さらに病身の母を気づかい、おいしい物が膳につくと
自分は食べずに一走りして母に届け、
また半期に一度主人からの 「 粗物 」 としてもらう
単衣や浴衣地も、そのまま母のもとへ届けた。

母そよは、それを感謝し金にかえて暮らしの足しにした。

なおは母の喜ぶ姿を唯一の楽しみとし、
そんななおを、そよは誇りに思い

「 これはな、なおのくれたものじゃ、これもそうじゃ 」

と、会う人ごとに娘の孝行を喜んで告げたという。

やがて、なおの孝行娘としての評判が高くなり、
十二歳のころには、福知山藩主から
三孝女の一人として表彰された。

当然、近所の人の評判がよく、
人はみな自分たちの子供に

「 なおさんと遊べ 」

と言っていたという。

また、なおは子供のころより信心深く、
すでに六、七歳のころから、のちに大本でいうところの
「 みろくの世 」 の到来を口にしたという。

奉公先から三日ぐらい姿を隠し
夕方にぼんやり帰ってきたので事情をきくと、
山のなかで 修行してきた と答えたという。

成人しても自分の住まいには 神床を設け、

天照皇大神、八幡大菩薩、春日大明神

と併記した軸をかかげ


「 天照皇大神さま、日天さま、月天さま、
 天道さま、うれし権現さま、七社大明神さま、
 日本国中の神々さま、御眷族さま 」


 
と唱え合掌した。

さらに仏や祖霊もまつり、それらに茶湯を献じ、
その残りは 「 餓鬼に進ぜましょう 」 といいながら
溝にそそぎ 無縁仏に供えたという。

安らかにあの世へゆけない零落したみたまたちのことも、
なおはすでに意識していたのであった。

前途のように
なおは貧苦の生活に青春をすりへらしたため、
寺子屋や夜学に通うことはできなかった。

だから無学文盲の女性ではある。
けれども無知無教養の人ではなかった。

京都丹波地方の中では
文化の中心地である福知山に育ち、
当時の藩が教化した家族道徳や儒教倫理、
心学などの影響や母の慎ましい生き方
その考え方を受け継ぎ、
人生姿勢を いつの間にか会得していったのである。

後年、大本開祖として多くの人々に接するのだが、
なおの挙措ふるまいは、ひかえめで品のよいものであった。

とくに娘時代は、朝暉神社奉納の能拝観をとても好み、
能楽を通して文学や歴史、
美術や音楽などの世界を経験し、

ストーリーやドラマから
人の世や もののあはれ を感じとっていたのである。

 
 

貧苦の底 

 
嘉永六年、なおは十七歳で綾部の出口家養女となる。

出口家は母そよの実家であるが、
その株内の家を母の妹ゆりが継いでおり、
子がなかったので、なおを跡継ぎにもらったのである。
この二年後、なおは婿養子をとり家を相続した。

なおは二十歳の夏から
四十七歳の新春までに十一人の子を生み、
三人は早死でうしなうが、三男五女の子を育てた。

夫政五郎は大工で、人も腕もよかったが
取り引きが下手で 物欲も希薄だった。

そのうえ酒と芝居と冗談好きで遊び癖があり、おまけに
悪い親戚や近所連中に騙されたり、たかられたりで、
家族は散々な生活をしいられた。

また、なお一家が暮らす本宮村(現、綾部市本宮)
環境悪く、三十一軒の家に
首つりが三人、殺人や強盗罪で終身刑が三人、
泥棒が四人、バクチうちが二人、
それ以外に監獄送りが三人、
盲、半盲が七人、片輪が四人、
健忘性、阿呆、ゴロが各一名いた。

他には
恋人と一緒になれず 婿をもらった晩に服毒した娘や、
野壺の肥を盗ったのを責められ
枕元に十両の金をおき 自殺した女もいた。

この村は まともな人間は二、三軒ほどのもの。
悲惨のきわみであった。

また、なお夫婦は
綾部の地の者ではなかったため、よそ者の差別をうけた。

がいして恵まれない家庭に、人情不在の悪党鬼村。
なおは一身を犠牲に 希望のない年月を送ったのである。

ついには 住みなれた家を売り小さい平屋に越し、
子どもたちも 奉公に出したが追いつかず、
明治十七年、とうとう一家は戸を閉めてしまった。

つまり破産である。
世間との出入り戸を閉めたわけである。

弱り目にたたり目で 夫はけがで寝込んでしまい、
酒毒も手伝って 回復の見込みなく、
そのうえ 大工奉公をしていた長男がやけくそになり
ノミで喉をついて自殺未遂をはかり、
はては行方知らずとなってしまう。

長女は バクチうちの大槻鹿造にかっさらわれ、
次女は 一時期京都へとびだしてしまい、
三男もこれまた大槻鹿造が
子どもが無いのでくれ、と連れていってしまう始末。

なおは、当時もっとも悲惨でどん底の者が身をおとした、
ボロ買い、紙屑拾いになり 暮らしをつないだ。
 
 
 

政五郎の死 

 
明治二十年三月、
長い間寝込んでいた夫政五郎が亡くなる。


酒と遊びに身をもちくずし、家をつぶし
妻子をかえりみない政五郎だったが、
元は大工としては名人であり
大工仲間も羨み嫉妬するほどの
完璧な普請を三百軒も建てたほどであった。


政五郎が床についたころは、
やれ酒を買え、梨をむけだのわがまま放題だったが
なおは従順にしたがい


「 ほしいもんがあったら、なんでもいうて下されや 」


と言って 懸命に看病したのであった。

政五郎は長い間、なおの苦難をいやおうなく見せられ、
しだいにおとなしくなり反省の心もわいて、
さすがに 妻の愛情が身に染みてきた。


「 わしは今まで気随気ままばかりしておったのに…
  お前のような親切な女房はもったいないのう  」

と涙するようになった。


政五郎は、なおが紙屑拾いに出かけるとき、
中風で思うように動かぬ手をふるわせながら
床の中からその後姿に手をあわせた。


亡くなる年の二月末、政五郎は死期をさとったのか

「 なおや、永う世話してくれたが、もう死のうやもしれんで
 …この世のなごりにもう一杯だけ酒が飲みたいんや 」

と、力ない声で言った。


その日、なおの手にあいにく一文もなかったが
金に換えれる品物は商売道具の はかり だけであった。

これを二銭の金にして酒代にした。

こうして夫との生活は終わりをつげた。

 
 
 

開教までの日々 

 
政五郎の死後も、幼い子らを抱えながら窮乏はつづいた。

それでもなおは、心の余裕を決して失わずに
貧乏くずれといったものは一切見せず、
木綿の粗末な着物でも 常に折り目正しく清潔であった。


髪もいつもきちんと結われ、
そんななおを町の内儀(おかみ)さん達は

「 なおさんが糊つけを着ているのは、
 他の人が絹物を着ているより立派に見える 」

と、話しあっていたという。

生活ぶりもひそやかで信仰的、
道端で落穂を見つけると、なおは必ず拾ってかえった。


「 天地のおめぐみで実ったものを
 踏みつけてしまってはもったいない、
 お水のご恩はお返しすることができない、
 せめて大晦日には何なりと
 夜なべをしてお水のご恩報じをしたい 」


と、縫い物の手をやすめないなおであった。

このような清純な信仰心は、生まれもったものであったが、
それが ますます磨かれていった。


しかし、なおの身辺にはさらなる苦難が待っていた。

明治二十三年八月のこと、
三女のひさが娘ふじを出産するが、ふじの指に
障害があったことを思い悩み、錯乱状態になっていまう。

幸いにも 二女ことが熱心な金光教信者だったため、
紹介された布教師の祈擣により、ひさは正常に戻った。

このことがあり、元々信心深かったなおは
金光教に傾倒していくようになった。


ところが、それから一年余りが過ぎた冬のこと、こんどは
大槻鹿造と一緒になっていた長女よねが発狂してしまう。

のちに開祖となったなおは、それまでの半生を

「 この世にまずない苦労を経験した 」

と、語っている。


明治二十五年、旧正月が間近いこの冬、
なおは毎夜水行をする中に 神夢と帰神 が訪れた。


大本では、この時をもって開教としている。

 
 
 

神封じ  

 

帰神がはじまり、なおは夜となく昼となく、
大きな太い声で神の言葉を叫びつづけた。

なおのこうした激しい神がかりは、
たちまちせまい村の評判になった。
近隣の人々は

「 なおさんはとうとう気がおかしくなったか 」

と 心配した。


もともと、慎みぶかい人柄であっただけに、
そのように噂されることは、なおには苦痛であった。

しかし止めようとしても 口をついて出る声を、
おしとどめるすべはなかった。

その声は

「 世界の人民、
 はやく改心いたされよ。足もとから鳥がたつぞよ 」

「 日本と唐との戦があるぞよ 」

と、ぶっそうなことも言い出す。

二月に法華宗の僧侶がやってきて、
なおに憑霊退散の祈擣をほどこした。
ところが逆に

「 もちっと修行してこい 」

と怒鳴られ、なおに突き倒されたという。

しかし、なおは帰神から解放されているときは、
こんなことではいけない、と恥ずかしく思う。

ある日、何鹿郡吉美村に
そろばん占いがいるのを思いだし訪ねてみた。
自分にどんな神がついているのか知りたかったのである。
そのそろばん師は

「 なおさん、エライこっちゃで。まあ、どえらい神さんじゃ 」

と鑑定した。そして

「 わしが封じてやろう 」

と力を入れたが、いっこうに封じることができなかった。


 
三月十日には、じゅず占いを訪ねた。
山家村の本経寺の僧侶で、つきもの封じで有名であった。

ところが、ここでも神がかりがあり

「 コラ、坊主。修行の仕直しをいたせ 」

と、よせつけなかったのである。
 
 
 

決 意 

 
帰神状態になると、身体は電気にふれたようになり、
聞こえる物、見える物、それらは別のものが開けていく。

美しい感情に身体がはちきれるように締ってくると思うと、
なおの腹に 何か大きな力が入っているのが自覚される。

その力が腹の底から、玉が上がるように昇ってきて
声となってあらわれてくるのである。

なおは、自分がこのような
夢とも現ともつかぬ気持ちにおかされては、
この先どうなるのだろうと悩むのである。

慎み深い性格だけに、
もしこの神の申すことが間違っていたら、
世間様に申し訳ない … と胸を痛めた。

やがて心が平静になると、なおは
静かに腹の大きな力のかたまりと 問答をはじめる。

「 どうかやめて下され、そんな偉い神さんが、なんで、
 わたしのような紙屑買いなどにおかかりなさるのか… 」

すると神はこういう。

「 この世の代わり目に お役に立てる身魂であるから
    わざと根底に落として 苦労ばかりさせてある 」

さらに何のために我が身に降臨したのか、ふたたび問うと

「 三ぜん世界 一同に開く梅の花、
 艮の金神の世に成りたぞよ。
 この神でなければ世の立て替えはでけぬ。
 三ぜん世界の大掃除大洗濯をいたすのじゃ。
 三ぜん世界ひとつに丸めて
 万劫末代つづく神国の世にいたすぞよ 」

と答えた。

しかしそれは、その日の食物にも困っているなおにとって、
世直し どころのさわぎではない。けれど
現実にこの状態は定まっていくのだからやむをえぬ。

つらつら思いみるに 自分がこれまで、
この世にまずない苦労をしてきたことも、
子どもの頃より 神秘な世界にふれることが多かったのも、
何かゆえあってのことであろう。

仕える夫もない今となっては、
自分が この艮の金神さんの命のままに、
夢幻のようではあるが 世直しに生きるのが、
天から授かった 命の清い使い道やもしれない …

やがて、その艮の金神に仕えよう、
神とともに生きようとの決意が固まると、
帰神が穏やかになった。

昼間は行商も可能の状態となってきた。
 
 
 
 

神 命 

 
艮の金神は、なおにさまざまなことを命じた。
神命の一つに、深夜の水行があった。
どんな寒中であろうと、なおは神のいうとおりに
凍るような井戸水をあびた。

神の命ぜらるるままに七杯の水をあび、
八杯目をこころみようとしたとき

「 もうよい 」

と神の言葉がある。
そんな時は、浴びかかったツルベの水を
そのまま頭からかけても水はみなはね散り、
身体には一滴もかからない。

この水行の最中、水をかぶるたびに、
神前では松明(たいまつ)が大変な勢いで
火がパッパッと燃え上がるのを人々は見た。

のちに開祖なおは

「 あれは神界で松明を焚いて、
 私の水行するのを ご守護して下さっているのや
 それで水行といっても すこしも寒くありません 」

と説明したということである。

のちの開祖なおは、
神の筆先を書く前には必ず水行をした。
そして水行のように頻繁ではないが、神は

「 なおよ舞いを舞うのじゃ 」

とも、うながしている。
子どもの頃、神社の能舞台での能楽に心ひかれて
拝観はしていたが、稽古できる境遇でなかったなおは、

「 わたしのような
 稽古一つしたことのない者に、
 どうして舞いなど舞えましょう  」

というと、神は

「 それでは、
  このほうが舞って見せるから
   われについて舞うがよい 」

 という。

なおは座敷の障子を閉め、
幻のように浮かぶ神の舞い姿を追い、
やっと一さし舞い納めた。
そのあと、

「 なぜこのようなことを 」

と 問うと、

「 ここ(大本)では先になると
  このように仕舞や能楽が盛んになる
  それで今そなたにその型をしてもらった 」

と、神は答えたという。

大本と仕舞は、この時すでに神縁があったのである。
現在、大本の神殿のいくつかに能舞台が設けられ、
笛、大鼓、太鼓、小鼓のひびきが絶えないのも、
故あることといえる。
 
 
 
 

火事騒動

 

明治二十六年一月。
綾部では、たびたび原因不明の火事があった。
なに者かによる 放火らしい という。

四月十九日の夜も、
千田町の材木商の森という家が火事にみまわれた。

この日の前後にも なおは帰神し、


「 よき目ざましもあるぞ。悪しき目ざましもあるから
  世界のことをみて改心いたされよ。
  いまのうちに改心いたさねば、
  どこにとび火いたそうも知れんぞよ 」


と、大声で叫んでいた。
これを耳にした近所の人が、


「 火事はなおさんの放火ではなかろうか 」


と警察へ密告した。
翌々二十一日、なおは
刑事と巡査に連行され留置場に入れられた。
その留置場は できたばかりで真新しく、


「 これは結構や 」


と、なおはかえってご機嫌であったという。
しかし夜中になると帰神がおこり、
神は、ひそかに酒を飲んでいる巡査を見透し、


「 人民の番人が茶碗酒を飲みくろうていて
  番人の役が勤まると思うか。
  税金が遅れたというて
  罰金を取り立て それで酒を飲み、
  この世は 上に立つ者ほど乱れておるぞよ 」


と 心うち痛い言葉を発した。
警察の取り調べに対しても

「  もっと大きな者はよう調べんのか。
  上におる者を吟味せんことには
 御上のいうことなど聞く者は一人も無うなるぞよ 」


と叱りつけたのであった。
警察も、こんなにうるさくては
酒もゆっくり飲めぬと 手をやいていた。

ところが 翌日の夕方、
放火犯が判明して なおは放免された。
巡査たちも、ほっとしたことであろう。
 
 
 
 

座敷牢に入る

 
放火騒動から放免されたなお。
しかし、長女よねの夫となった大槻鹿造が

「 なおさんは気が狂ってるんやから
       もっと入れておいてくれ 」

と警察に頼んだが、そうもいかない。警察は、
それではと 組内に命じて村内に別の座敷牢をつくり、
なおを、無理やりその牢に押し込めてしまう。
少女のころから謙恥心が強かったなおは、
気が狂ったとして座敷牢に入れられるなど
これ以上ない 辱しめである。

なおの全身を、それまで味わったことのない
途方も無いほどの さびしさが覆った。
そしてこんなことでは出口家の名を汚し、
先祖に申し訳ないという気持ちになった。
死んで御詫びをしようと 自害を決意したのである。
そのとき、
いつもの威厳ある神の声が、なおの口より出てきた。

「 罪障(めぐり)あるだけのことは出してしまわねば
  死んでも同じこと、霊魂はさらに苦しむぞよ。
  いまでは地獄の釜のこげおこし、
  耐(こば)らんと良い花咲かぬ梅の花、
  この経綸(しくみ)成就いたしたら、
  夫の名も出る、先祖の名も立つ ・・・ 」

神の説得は、なおの決心をくつがえした。

「 それでは、大声で叫ばれて
 こういう目になったので、これからは止めて下され 」

と談判すると、神は

「 では 筆を持て 」

と命じた。

「 文字を書くことなどしらない ・・・ 」

と、なおが ためらうや

「 そなたが書くのではない。
 神が書かすのであるから、うたがわず筆をとれ 」

と、神の声が重なった。
筆など牢の中にあるはずなく、
近くにあった古釘をふと手にした。
 
すると 暗闇のなか 古釘の先に光がともり、
その光を手が勝手に動いてなぞっていき、
牢の柱に文字のようなものが刻まれていった。

こうして神の言葉が、記されるようになる。
これが、「 お筆先 」 のはじまりである。

かくして入牢から約四十日を送り、
なおは出牢され、青空を仰いだ。

このお筆先は、のちには筆で半紙に書くようになる。
なおが昇天する大正七年までに、
約一万巻、半紙十万枚の多きにのぼった。

この開祖のお筆先を、
のちに王仁三郎聖師が漢字をあて、
句読点をつけ読みやすくして発表したのが
「 大本神諭 」 である。
 
 
 
 

綾部の金神さん

 
出牢後なおは、半年前に子守り奉公へいった
末っ子すみ をたよりに、八木へ向かったのであった。

八木に滞在する 三ヶ月あまりの間、
なおは入牢で衰弱した体力の回復をはかりながら、
故障している時計をうごかして見せたり、
頼まれて天気予報ならぬ予言を 時々おこなった。

もちろんすべて的中するが、そういう類の不思議は
なおの幼少のころからのもので、
何も 珍しいことではなかった。

体力が元にもどると、
ちょうど時期であった糸ひきの仕事をし、
そのわずかな収入で衣類をととのえ、
末っ子すみを連れて綾部へ帰った。

なおは紙屑買いのついでに、
その家々に上がって神床の掃除もした。
もちろん家人にたのまれるわけでもない。
そんな敬虔な なおに対し、病人のある家では、
神さまにお願いして治してほしい、とたのんだ。
なおが祈擣すると 病人はあっさりと治った。そして

「 また具合悪くなったら
  綾部の方へ向いて拝んで下さいまし 」

と言いのこして帰る。
また病状が悪化した人が、言われた通り

「 綾部の金神さん 」

と唱えると、ほどなく平癒したのであった。
追々にして綾部を中心に、
なおを崇める人がふえたため、
これで良いのでしょうか、と神に問うと、

「 この神は病気治しや現世利益の神ではない。
  しかし今のうちは病気も治してやらんと
  神をよう分けまい。病の者には
  拝みやるがよいぞよ、お陰はさずける 」

と、言葉が返ってきたのであった。

艮の金神は 病気治しの神ではない。
また、天気予報や時計直しや 二、三年先を
予告するための神では もちろんない。
顕、幽、神 三界の
立て替え立て直しのために 出現したのであった。
 
 
 
 

日清戦争を予言

 
明けて明治二十六年夏のこと。

神は、「筆先で」という約束をさておき、
ふたたびなおの口をかりてきた。
そして、とほうもないことを叫びだし、
町を彷徨したのであった。

「 来年春から、唐と日本の戦があるぞよ。
  この戦は勝ち戦、神が陰から経綸いたしてあるぞよ
  神が表にあらわれて手柄いたさすぞよ。
  露国からはじまりて、もうひと戦あるぞよ
  あとは世界の大戦(おおいくさ)で、
  これからだんだんわかりてくるぞよ ・・・ 」

こんどの神がかりは、いつもと少しばかり違っていた。
ようやく なおの神狂いに慣れた周囲の者も、
戦争の予言となると 慌てふためいた。
なぜ文字も読めず、ましてや政治、世界情勢など
まったく無縁のなおが こんなことを言うのか、
誰にも理解出来なかった。人々はなおをあざ笑った。

「 あほめ、今ごろ戦争なんかあってたまるかいや 」

「 ぼけの気狂い婆が、また可笑しなことぬかしとる 」

当時、この丹波の山奥の人々にとって、
外国との戦争など思いもよらないこと。
中国もロシアも遠い国であり、
東京ですら 地の果てのように思われた。
ラジオもなく、新聞は読める者の方が少なかった。

日清戦争の原因は、
朝鮮半島の支配権をめぐる戦であった。
日本は明治八年に朝鮮と条約を結び、
経済進出をはじめていた。
しかし朝鮮は当時、清国の属国であり、
清は日本の進出をおさえようとしていた。
やがて 朝鮮宮廷の中も、親中派と親日派にわかれ、
暗殺や謀反(むほん)などの騒ぎがくりかえされた。

ようやく戦争の雰囲気がたちこめたのは、
翌、明治二十七年三月のこと。

日本に亡命していた朝鮮親日派の、金玉均が
上海におびきだされて 虐殺されてからである。
八月一日に宣戦布告が発せられると、
町の人々は、なおを見る目を百八十度かえてきた。

おまけに、なおの予言どおり
まるで神の加護があるかのように、
戦局は 日本の連勝のうちに運んだ。

なおは、ついこのあいだまでの「 気狂い婆 」から

「 おナオさんに拝んでもらえ 」

と言われるようになったのである。
 
 
 
 
 

艮の金神の杜

 
いよいよもって

「ふしぎな婆さんだ」

と噂されるなおは

「 こんどは露国からはじまりて
  大いくさがあると申してあろうがな 」

と予言警告したり、その他いろいろな予言があたる。
なおの周りには、いつしかその霊力をみこんだ
多くの宗教家がとりまくようになっていた。

なかでも亀岡の金光教会の大橋教師は、
綾部での教線をひらくために数人の幹部教師を
つぎつぎと派遣し、なおと同居させるのであった。
綾部に教会をつくり、なおにそこを根拠として
宣伝することをすすめたのである。

明治二十八年の一月、
なおは参拝にきた金光役員の四方平蔵に

「これを読めますかえ」

と筆先を見せた。
四方平蔵は当時二十四才、
のちに金光の大事なはたらきをする人でもある。
平蔵は筆先をけんめいに読み下そうとし、読
めないところはなおと協力して読んだ。
これが、大本の筆先の読みはじめとされる。

なおの毎日は、炊事、せんたく、掃除、
さらに使い走りにと忙しい日課を消化した。
参拝者の世話にも真心をつくし、
みなの汚れた足袋や脚絆まで洗って干した。
このような、なおの温かい心づかいと謙虚な態度は、
いよいよ沢山の人を引き寄せずにはおかなかった。

こうして綾部の教会では、なおの力で病人なども治り、
信者もますますふえていった。

しかし金光布教師の奥村定次郎は、なおの
謙虚さをいいことに、なおを使用人のように扱った。
なおがそれを我慢したのも、
いつかは艮の金神を世に出してくれるだろうと
期待していたからにほかならない。しかし、
奥村は艮の金神を逆に押し込めるような態度をとった。

なおの気持ちはどうも落ち着かない。
おおもと(大本)の神さまと金光教の神さま両方を、
おのおのにお祭りしている複雑さ。金光教では、
 「 艮の金神 」
を審神(※)できる者がおらず、金光の
 「 天地金乃神 」
よりも一段下に祭っていたのである。

※ 審神 (さにわ。神のくらいを判定すること)

なおは、とうとうたまりかねて役員の止めるのも聞かず
八木へ糸ひきにいってしまう。金光教に
隷属することは、なおにとって、また艮の金神にとって
しのびないことである と思ったのである。

八木で二十日ばかり滞在し、
ついで馬路にいって糸ひきをしていると、
うわさを聞きつけた八木の金光教会、
さらには天理教会までも、

「ぜひ一緒に神の道をひらきたい」

と申し出があった。

しかし天理教でも、艮の金神を
「天狗の霊」と審神しており、
どこの教会も我が神天下であること、
なおは耳をかさず、ほどなく綾部に帰った。

明治三十年の春。
なおは支持者達の手配により
裏町(現、若松町)の梅原伊助の倉に移った。

ここでははじめて厨子をこしらえ、八足台を置いて
「 艮の金神 」 を型の如く 奉斎した。

こうした中にあって、なおや艮の金神の信者達は、
この神の真の力となる者の出現を渇望したのである。
そんな折に、こんな筆先が出る。

「 綾部に、大望ができるによりて、
 まことの者を神が網をかけておるから、
 魂をみがきて神のご用を聞いて下されよ。
 今では何もわからぬが、
 もう一年いたしたら結構がわかるぞよ ・・・ 」

そしてこんな神示もあった。

「 この神を判ける方は東から来るぞよ 」

なおは、それからご神前に向かって
よくこんな風に言っていたという

「 神さま、そのかたが東から参られるまで、
 あなたさまと私と二人で、こうして待ちましょう 」
 
 
 
 

少年 喜三郎

 
文明開化の嵐が日本国中に吹き荒れていたころ、
丹波亀岡の穴太(あなお)村では、
かつてない水飢饉に襲われていた。
村中の井戸は枯れはて、
掘れども掘れども一滴の水も出ず、
村人は疲れきってしまっていた。

その途方に暮れる村人のところへ少年は現れ、
ふと地面に耳をつけたかと思うと、
その場にすっくと立ってこう叫んだ。

「 おっさんら、そんなとこ
 なんぼ掘ってもあかんで。水の筋はここや、ここや 」

しかし、連日の疲労困憊に
いら立っていた村人達は、少年に怒鳴った。

「 あほんだら、
  お前みたいなガキに何がわかるんじゃ
  邪魔やさけ、あっちへ行って遊んどれ  」

すると少年は

「 ああそうけ、
 言うても信用せんやろうと黙っとったけど、
 あんまり気の毒やさけ
 教えてやったのに、えらい ソンこいたわ  」

村人達は

「 なんちゅう小憎らしいガキじゃ 」

と言いながらも、
少年が居なくなると やはり気になった。
そして少年が指した場所を掘ってみると、
こともあろうか、たちまち水が吹き出したのだった。

少年の名は、「 喜三郎 」。この少年こそ、
のちに大本聖師となる、出口王仁三郎である。

時は明治四年八月。
丹波亀岡盆地の穴太村に、喜三郎は生まれた。
父は水呑み百姓の上田吉松である。父吉松は
正直男の名を取ったが、茅屋は破るるにまかせ、
壁はこわれて骨あらわれ、床は朽ちて落ちんとする
悲惨な生活に甘んじていた。

上田家の先祖はもともと藤原姓を名のっており、
穴太村ではきこえた家柄であった。しかし、
上田家に道楽息子や極道者が続いたため、
喜三郎が生まれたころには家財はすっかり傾き、
文字通り水呑み百姓のあばら屋になりはてていた。

祖父の吉松(父と同名)という人は、これまた
大変なバクチうちで家運はますます傾く一方である。
妻の宇能(喜三郎の祖母)が
いくらいさめても聞かぬばかりか、

「 気楽に思うておれ、お天道さまは
 空飛ぶ鳥でさえ養うてござる。
 鳥や獣類は、明日のたくわえもしておらぬが、
 べつに餓死はせえへん。
 人間もそのとおり、飢えで死んだものは
 千人に一人か二人くらいのもんじゃ。
 千人の中で九百九十九人までは食いすぎて死ぬのじゃ 」

といって気にもしない。さらに言うには

「上田家は、いったん家も屋敷もなくなってしまわねば
 良い芽は吹かぬぞよと、いつも産土の神が
 枕頭に立って仰せられる。一日バクチを止めると、
 すぐその晩に産土さまが現れて、
 なぜ神の申すことを聞かぬか
 と、たいへんなご立腹でお責めになる 」

という。

そんなわけで喜三郎がもの心ついた頃には、
昔富豪だった上田家の田畑もほとんどなくなり、
六畳、四畳二間のバラックと、わずか一畝(約百平方米)
ほどの水田があるばかりとなっていた。

その祖父は、喜三郎が生まれて間もない年の暮れ、
五十八歳にしてこの世を去る。
その臨終には、一つの意味深な遺言を遺している。

「 上田家は代々から、
 七代目に必ず偉人が出て天下に名を成しとる。
 孫の喜三郎は、先祖の円山応挙(江戸時代の有名絵師)
 から数えて七代目じゃ。

 亀山の易者に見せたら、この子はあまり学問をさせると、
 親の屋敷におらんようになるが、
 善悪によらずいずれにしても変わった子であるらしい。

  十分気をつけて育てよ  ・・・  」
 
 
 
 
 

小さな教師

 
明治七年一月、上田家には
喜三郎に次ぐ由松が誕生した。次男が生まれたため、
母よねは喜三郎を祖母の宇能にゆだねることにした。

先に昇天した祖父も変わり者であったが、
祖母もある意味でずいぶん変わった人だった。
といっても祖父のように
大バクチをうって遊びまわったのではない。
宇能は、当時の片田舎には珍しい教養の持ち主で、
和歌の道に通じていたばかりでなく、
言霊学にふかい造詣をもち、信心深い人でもあった。

言霊とは、我が国の上古において、まだ文字がなく
言葉だけで万事を伝えたため、言葉をひじょうに尊重して
霊があるとされたもので、言葉には霊威があり
力が働いて事象がもたされると信じる

この言霊学の研究者で、「日本言霊学」という
書物をあらわしたのが、中村考道であったが、
丹波亀岡近郊に住んでいた。

この学者の家に生まれたのが、
喜三郎の祖母、宇能である。
喜三郎が幼、少、青年期を通じて このような教養と
信心のある祖母の影響を受けたことはいうまでもない。
とくに、十歳になる頃には
宇能が授ける言霊学につよい興味をしめし、
よく山や野へいっては

 「 アー、オー、ウー、エー、イー 」

と、一人叫んでいたという。

喜三郎が六歳になった秋のこと。
万病除けのために施してもらった漆灸に、
かえってかぶれてしまった。

これが痒くてたまらず、身体中をかきまくったため、
あちこち腫れたり破れたり、瘡(かさぶた)だらけになって
とうとう動けなくなってしまった。

しかし人生というものは何が災いし、
また幸いするかわからない。喜三郎は、
この漆騒動のおかげで小学校の入学が遅れるのだが、
これが理由となって、祖母に読み書きや
百人一首の手ほどきを受けたのであった。
喜三郎の小学校入学は三年遅れ、
満九歳の春にようやく入学式を迎えた。

喜三郎は小学校に入学するやいなや、
持ち前の天才ぶりでめきめき進級し、
四年後には先生すら追い抜くまでになっていた。

授業の中で担任の先生が、
大岡忠相(ただすけ)の名前を「 ただあい 」と読んだ。
これを喜三郎は、すかさず

 「 それは、ただすけ、と読むんじゃ先生 」

と訴えると、先生は

 「 何を言うか、ただあいが正しい 」

と、大声で激怒した。
そこへ駆けつけた校長先生は、
事のしだいを二人に問いただした。

校長先生は

「 ここは生徒が読んだ、
 ただすけ  が正しい
  君も少しは勉強しなされや  」

と、担任を叱ったのであった。
しかし、他の生徒の前で面目大潰れとなった担任は、
喜三郎をことあるごとに目のかたきにした。
喜三郎が少しの読み違いでもしようものなら、
すぐさまなぐり、時には太い麻縄で後手に縛りあげたり
大きなそろばんの上に 一時間あまりも座らせた。

そればかりか乞食が通ると指さして

 「 あれ、喜三郎さまのお父さまが通る 」

などとあざけたりもした。

それを、他の生徒達もそれを面白がるため、
喜三郎は、とうとうたまりかねて反撃に出た。
竹の先に糞をつけて、草陰からそのまま
先生の腰に突き当てて逃げ帰ったのである。

この一件で喜三郎は退学になり、
もともと原因をつくった担任も退職処分となった。
ところが、かねてより喜三郎の才能を
見こんでいた校長は、なんと辞めた担任の代役に
喜三郎を助教員として採用したのである。

十二歳の少年教師喜三郎は、
黒板に字を書くにも踏み台が必要であった。
教え方はざっくばらんで型やぶり、
生徒が難しい質問をすると、

「 そないなこと、わしは知らん。
 調べてきてあした教えてあげよう 」

と、あっけらかんという。

これが生徒達に、とても親しみを与え評判であった。
しかし一年余りほど教鞭をとったのち、
同じ学校の坊主あがりの教師と神仏論争で激突し、
あっさりと教職を辞めたのであった。
 
 
 
 

転換期

 
明治二十六年のこと、
数え十八歳になる青年喜三郎は、
廃墟になっていた亀山城で瞑想にふけっていた。
亀山城といば、あの正義の逆賊で知られた
 明智光秀が居城である。


瞑想中、喜三郎は意識の中に、
見たこともないような映像が沸き上がってきた。

驚きつつもその映像に集中していると、なんと、
この城を再び建設している自分が見えたという。

そのとき、
喜三郎はにわかにかけられた声で我にかえる。


 「 貴殿は旧藩にゆかりの方ですかな 」


ふと見上げると、
ひとりの白髪の老人が杖を片手に立っていた。


 「 そうではおまへんが、わしの故郷ですわ。
  わしは百姓の小せがれですが、
  ・・・ あんさん、もとはお侍はんですな 」


すると老人は


 「 さよう、二百石を頂戴しておった。
  しかし、ふがいないもんじゃのう。
  お城も今は荒れほうだいじゃ ・・・ 」


と答えた。すると喜三郎は、きっぱりとこう言った。


 「 爺さま、あと二十年
   長生きしとくなはれ、わしが再建します 」


喜三郎は、この頃から
自分の将来を透視するようになっていった。

明治三十年七月、
喜三郎が父、吉松が五十三歳で亡くなった。

この時の喜三歳の落胆ぶりは、
はた目にも痛ましかった。

父は貧苦のうちに人間らしい生活の体験もなく、
一生泥まみれになって、働きあげく人生であった。
喜三郎は、そんな父が無性に不びんでならなかった。

そして限りなく虚しく、悲嘆にくれるのであった。


喜三郎は、この父の死を境にして感ずるところあり、
近隣の妙霊教会や神籠教会、大元教会などを訪ね歩く。

しかし、その虚しさを癒すどころか、形式信仰ばかりで
かえって煩悶が増すばかりであった。

これらも影響し、青年喜三郎は一時無神論にかたむいた。
そのかわり、いわゆる弱きを助け強きをくじく
 …
という、任侠の世界が喜三郎をひきずりこむ。


 「 よし、明治の幡随院長兵衛になろう 」


そうして、人に頼まれ無頼漢を抑えようとして
派手な喧嘩になったり、仲裁をかってでたりした。

そのうち


 「 仲裁は喜三やんに限るわ 」


などと煽てられて、いよいよ侠客を気どり、仕舞いには
どこかに喧嘩がおちていないか、と探すほどであった。
かくして喜三郎は父の死後、短期間のうちに十回も
悶着の中に飛び込み、助けた人には喜ばれたが
その相手からは恨みをかうことになる。


明けて明治三十一年二月のこと。


喜三郎は浄瑠璃の師匠、吾妻太夫について
みっちり稽古を積んだ成果をお披露目のため、
新年会に加わり裃(かみしも)をつけて高座で気持ちよく
絵本太功記  「 尼崎の段 」  を語っていた。


そこへ、かねてより喜三郎に恨みをもっていた
宮相撲取りの若錦が、大勢の子分をひきつれて
怒涛のごとく、どやどやと暴れ込んで来たのである。

喜三郎は高座から引きずりおろされ、胴上げのように
たちまち近くの畑に運ばれて、袋叩きにされてしまう。

弟の由松が、こん棒をもって 兄の敵 だと
若錦のところへ殴りこんだか、返り討ちにあう。

喜三郎、かぞえて二十七歳の春前のことであった。


喜三郎は、自宅近くにある「 喜楽亭 」と名づけた
自分の小屋で 頭をかかえ布団をかぶっていた。
翌朝、母のよねと祖母の宇能が心配して駆けつける。
八十四歳になった宇能は、喜三郎に諄々とさとした。


神妙に耳を傾ける喜三郎に、
祖母宇能は 切々とうったえた。


 「 三十近くにもなって、物の道理が分からぬはずあるまい。
  侠客だとか人助けだとかいっても、助けたよりも
  十倍二十倍も人に恨まれては 何にもなるまい。
  男の魂だといっているが、ナラズ者や
  バクチ打ち相手に喧嘩をするのが、男の道だと思うてか   」

 「 この世に神はないとか、哲学がどうのと
  カラ理屈ばかりいって、そのむくいが今きたのだろう。
  昨晩のことは、まったく神さまのお慈悲のムチじゃから
  若錦たちを恨んではなりませんぞ。
  一生の恩人と思って 神さまに御礼を申しなさい … 」

 「 お前の父は、あの世からお前の行状をみて、
  行くべきところへも よう行けず、
  魂は、宙に迷うていなさるにちがいない。
  どうか心を入れかえて、誠の人間になっておくれ 」


喜三郎は、腹にこたえた。そして心の中で詫びた。
子供の時から神さまを信じていながら、ここしばらく
神の道を忘れて、祖母や母に不孝を重ねていたことを
自覚したのである。


 「 ああ、吾あやまれり … 」


悔悟の念は胸内をえぐり、身も世もあらず泣き入った。
この一瞬に、喜三郎の人生は 大転換する。

 
 
 
 
 

高熊山の修行

 
喜三郎は、神使に富士山へ導かれる幻夢の中にいた。
目が覚め気がつくと、高熊山の岩窟の中に居た。

高熊山は穴太の西南に位置し、
かつては高御座山といい出雲の裏山とともに、
神体山として崇められていた。

喜三郎は その岩窟に座し、三月初頭の寒気のなか
襦袢(じゅばん)一枚で七日の間 端座したまま過ごす。

その間に 神人感合の境地に入り、霊界をかけ巡って
宇宙の真相を悟り、ついには救世の使命に目覚める。

のちの聖師王仁三郎が著わされた 『 霊界物語 』に
この修行の模様について 記されている …


「 高熊山の修行は、一時間神界の修行を命せられると、
  現界は二時間の比例で 修行させられた。
 … 現界の修行といっては寒天に襦袢一枚となって、
  前後一週間 水一杯飲まず、一食もせず、
  岩の上に静坐して無言でをったことである。
  その間には降雨もあり、寒風も吹ききたり、
  夜中になっても狐狸の声も聞かず、虫の音もなく、
 … 寂しいとも、恐ろしいとも、
  なんとも形容のできぬ光景であった  」

  たとへ狐でも狸でも、虎狼でもかまはぬ、
  生ある動物が出てきて 生きた声を聞かして欲しい。
  生物であったら、一眼見たいものだと
  憧憬(あこが)れるやうになった。
  アゝ生物ぐらゐ人の力になるものはない … 」

  世界の人々を悪(にく)んだり、怒らしたり、
  侮(あなど)ったり、苦しめたり、人を何とも思はず
  日々を暮らしてきた自分は、何としたもったいない
  罰当たりであったのか、たとえ仇敵悪人といへども、
  皆 神様の霊が宿ってゐる。人は神である、否、
  人ばかりではない。一切の動物も植物も、皆
  われわれのためには、必要な力であり、
  頼みの杖であり、神の断片である 」


喜三郎はこの修行中に、天眼通、天耳通、自他心通、
天言通、宿命通などの大要を体得する。
少年時代から相当な霊能があったが、その力は
高熊山修行において、急速に発達したのである。


「 … 汽車よりも、飛行機よりも、電光石火よりも、
  すみやかに霊的研究は進歩したやうに思うた。
  たとへば幼稚園の生徒が大学を卒業して
  博士の地位に瞬間に進んだやうな 進歩であった   」


と記している。また、ここで
 『 鎮魂帰神法 』 の大要を教示される。


※ 神霊に対するまつりは、顕斎と幽斎の二つに大別される
 顕斎とは、神社や祭壇おまつりしてある祭神に対し
 神饌物や祭典をもっておまつりする神事であり
 幽斎とは、特定の場所や時間、祭儀などにこだわらず
 神霊に心魂をまつりあわせる法をいう。
 この幽斎の中に、精神をおちつけしずめる
 『 鎮魂帰神法 』 がある。

 この法は 全部で三百六十二法あり、大別すると
 神感法、自感法(本人だけ感じる)、
 他感法(他の人にも感じられる)などがある。


ある時、喜三郎の友人である斎藤仲一が、
二年ごしの歯痛に悩むという、主婦を連れて
霊力で治してやってほしいと頼まれたが、喜三郎は


「 この世の造物主、創造神に感じて この主の教えを学び
 広めるのが自分の神学であり、病気治しが目的でない 」


といって断った。しかし斎藤に、


「 理屈はあとで聞く、神学や霊の威力を見せてほしい 」


と執拗に迫られ、致し方なく 鎮魂で治して見せた。
ところが、それからどっとその種の人々が押しかけ、
喜三郎は閉口してしまい、唖然とするばかりであった。


そんないきさつもあり、喜三郎は神学の研鑽
そして幽斎修行のかたわら、
病人の心霊治療も併せはじめた。
また、町村を巡りあちこちの教会を借りて
講演も行い、
『惟神の徳性』 と題して、


「 日本臣民として、国家百年のための皇道を宣揚せし
  この腐敗堕落した社会を洗濯するとともに、
  惟神の徳性を 宇内に発揮せねばならぬ  ・・・ 」


という、勇ましい主旨のものであった。

 
 
  
 

seishi_1[1]

西北への道

 
霊力で噂になった喜三郎のもとへ、
あちこちの宗教からの誘いの声が、かけられて来る。


その中に、静岡県安部群
富士見村の月見里神社に属する
稲荷講社総本部の役員、三矢喜右衛門がいた。


喜三郎は、三矢の話を聞き講社の主旨には賛成だが
「 稲荷 」 という名に ちょっとひっかかりを感じた。
「 稲荷 」 というと、一般には狐や狸の類とされ、当時
丹波では、軽蔑をうける傾向にあったためである。

しかしながら、講社総長の「 長沢雄楯 」という人物が
過去、現在、未来を透察する霊学の大家と聞いて、
じっとはしておれず、総本部を訪ねてみることにした。


明治三十一年四月。
喜三郎は穴太を発って、三矢の案内で駿河に旅立つ。
京都までは徒歩で行き、生まれて初めての汽車で
無事に長沢雄楯が宅に着いたのであった。


長沢は、本田親徳(国学、霊学、言霊学者)の弟子で、
幽斎や鎮魂帰神を修行し、神道、神霊学、その道
当代随一の 大家 として、聞こえていた。

宅では、喜三郎に霊学の事や、本田の来歴など詳しく
語ってくれたのであった。そして、長沢の母豊子は


「 本田さまの仰有るには、十年後に丹波から
  一人の青年が訪ねてくるが、その者が来ると、
  丹波からこの道が開ける …とのことでした。
  お前さまのことに違いないと思いますから、
  お預かりしている鎮魂の玉や天然笛をお渡ししましょう 」


と言って、二つの神器と神伝秘書の巻物を渡された。

そして長沢が、喜三郎を審神してみようという事になり
喜三郎が神主の座について、幽斎が行われた。

その結果、まごう方なき高級神霊の神がかりが認められ


 「 鎮魂帰神 の 二科高等得業 を証す 」


という、免状まで渡された。
三日後、喜三郎は希望に燃えて故郷丹波へと戻った。

喜三郎の気性は元来、一度気持ちが定まると
千仭の谷の水を一気に切って落としたような勢いで、
勇猛果敢に進み行くものであった。
丹波に戻った喜三郎は、
亀山城に雄叫びして誓いをたて、産土の社には


 「 われを 世に立たせたまえ 」


と祈ったのであった。

そんなある日、小幡神社に参拝の折り、
小松林命(素盞鳴尊の分霊)から神示を受けた。


「 一日も早く、西北の方をさして行け。
  神界のしくみがさしてある。
  そなたを待つ者がある。
  すみやかにここを発ち園部の方へ行け 」

明治三十一年旧六月。
喜三郎はこの神示にしたがい、穴太をあとにした。
山陰道を二里ほど歩き、八木の虎天というところ、
その傍らにある茶店に入り、一休みすることにした。
すると、そこの女主人が喜三郎に声をかけてきた …

 「 あなたは、何をなさる人ですか 」

 
 「 わしは審神というて、神さんを見分けるもんじゃ。
   もっとも、あっちこっちで調べさしてもろうたが
   どいつも 狸や狐 ばっかりなんは たしかや  」

 
 「 そうどすか、どっちから来はりましたん 」

 
 「 東 … 穴太じゃ 」


 
女主人は、ひじょうに喜んで

 
 
折り入って頼みがありますのや。
  実は私の母はいま綾部におるんですが、
  艮の金神がおうつりなさって、神さんの仰るには
  この神の身上をわけてくれる者は、東から出てくると。
  わてらは、ここに茶店を開いてその方を待っとったんです。
  それが あなたに思えてならんので、どんな神さんやら、
  一っぺん行って 調べてやってくれまへんか  ・・・    」

 
 
 
この女主人とは、大本開祖なおの三女、ひさであった。

 

二人の出会い

 
明治三十一年、丹波路に秋も深まった十月。
なおの前に一人の青年が立った。
いわんや喜三郎である。

八木の ひさはんから頼まれて来たもんじゃが、
 艮の金神さんがかかられた婆さまはおられますかの 

なおは、喜三郎の歳があまりにも若いのと、
稲荷うんぬんという話から、最初のうちは筆先が示す
約束の人物かどうかについて、迷ったのであった。
そのため、この時には大きな進展は見られずに
喜三郎は 一旦この場を辞したのである。

けれどその後、自分の待っていたのが喜三郎である
という意味の事が、しきりに筆先に出るようになった。

一方の喜三郎も、なおの達している悟りや筆先など、
自分の修養、達している境地にひじょうに似ている
という考えを深くし、何かしらの強い縁を感じていた。

この頃、喜三郎は園部に腰をおちつけ、
「 霊学会 」の名をかかげ布教活動を展開していた。
霊斎によって、不思議な現象が起こる。
瀕死の病人が沢山癒え、難問題が解決したり、また
近隣の、低俗な霊がかりを片っぱしから見やぶった。

こうした中、自分はあの「出口なお」と共に救世の
神業を遂行すべき運命にあることも、覚悟していた。

明治三十二年二月、
喜三郎は、なお宛てに初めて手紙を送っている。

神の国を建設する時期が迫っている。
  自分と二人が力を合わせ事を成すべきである。
  ためらわずに決起してほしい
・・・ 」

一方の開祖なおと信者達も「 筆先 」の解釈には
大変苦労しており、その真の協力者を求めていた。
そして、なおは喜三郎の手紙に対し
この 筆先 を返事として送った …

艮の金神の筆先であるぞよ。出口なおにかかすぞよ。
  明治三十二年の四月十二日の筆先であるぞよ。
  世界には、おいおいと大もうがはじまるぞよ。
  この大もうあるゆえに
  出口なおに明治二十五年から言わしてあるぞよ。
  人民の知らぬことであるによって、
  なおが苦しみておるから よろしくたのむぞよ
・・・ 

六月に入ると

 「 一日も早く この神を表に出せ  」

という筆先が出る。

なおは、側近となっている四方平蔵に筆先を見せ、
上田喜三郎を迎えに行くように頼んだ。
百姓の田植えも終わり一段落ついた四方平蔵は、
七月一日に綾部を出発。八里先の園部へと向かう。

平蔵が園部に入ると、園部川で魚とりをしていた
喜三郎にバッタリ出会い声をかけたところ、
あとで宿屋で会おうということになった。
喜三郎は 魚とり の手を休めない。サッと水の中へ
手を入れて泳いでいる魚を、つかみ上げる。
喜三郎の特技の一つであった。
宿屋に戻ると、平蔵から早速なおの依頼を聞いた。

喜三郎は腹を決めた。
そして、いよいよ綾部へ行くことを祖母や母に告げる為
穴太までの往復九里近くの道を、その夜のうちに
歩いて行き来したが、それを平蔵は知らなかった。
穴太では小幡神社に参拝すると、神の声があった

綾部へ行って、今後十年の間はことに苦労が多い。
 蜂の室屋で、針のムシロに座らされるようなものである。
 可哀相であるが、神界のため、ぜひ勤め上げてくれよ

園部に帰った喜三郎は、平蔵と共にその夕刻に発ち、
夜は檜山の旅館で一泊。翌三日朝の綾部へ出発前、
平蔵に、突如こんなことを言った。

あんたの家の裏に、
  綺麗な水が湧いている溜池がありますなあ。
 その池の辺りは 枝振りのおもしろい小さな松の木があり
 少し右前の方の街道に沿って小屋のようなものが見える。
 そこは駄菓子の店があって
  六十ぐらいの婆さまが店番しているようじゃなあ
 」

それは他ならぬ 四方平蔵の家の様子であった。
平蔵は 驚き隠せずに

あんさんはやっぱり、稲荷さん使いとちがいますか。
  けど開祖さまは、稲荷さんが大嫌いなんですわ …
 」

と心配した。喜三郎はそこで、

これは決して稲荷ではない。あんたにも見せてあげよう

そういって平蔵を正座させ、鎮魂の型をとらせた。
すると、ふしぎにも平蔵の目にある光景が映った。
一軒の古い藁屋があり、小さい家と涌き水の池、
カヤなどの木々があって、かなり太い。道の側は
きれいな小川が流れている … と平蔵は話した。

喜三郎は

今のは 穴太のわしの家や。
 これは稲荷でなくて、天眼通という霊学の一つである

と説明すると、平蔵はあらためて感心した。
疑念が晴れた平蔵は、喜び勇んで綾部へと向かった。

午後三時すぎ、綾部に到着。そして開祖と喜三郎は
約九ヶ月ぶりに再会を果たしたのであった。
時に開祖なお六十二歳、喜三郎二十八歳の夏だった。

 

経糸と緯糸


明治三十二年七月三日。
開祖なおは、喜三郎と再会するやいなや言う。

分かっているでしょう

はい、分かっております

と答えた喜三郎。この日が、聖師の大本入りとなった。

さて、大本の筆先には 「変性男子」(へんじょうなんし
「変性女子」(へんじょうにょし)という言葉がある。
前者は、女体男霊で開祖なおをさしたものであり、
後者は、男体女霊で聖師(喜三郎)をさしている。
男子と女子の働きにより、縦と横の教えが説かれ
神の道が説かれていく、と大本ではいわれている。

なおが陰であれば、喜三郎は陽。
なおの剛に対し喜三郎の柔。謹厳実直の開祖なおと、
陽気で推進力に富んだ喜三郎のとりあわせは、
大本の前進の原動力となったのである。

喜三郎は大本入り後、教義の体系化、組織と結社、
宣伝と建設など、教団の発展に必要な あらゆる仕事を
獅子奮迅の馬力で、つぎつぎと遂行していった。
そして教団では、出口なおを教主、
上田喜三郎を会長と呼ぶことになる。

教会では 日を決めて
祭典、日々の参拝、お筆先の勉強会、
上田会長指導による教義の学習会が行われたが、
特に幽斎修行に熱心な者が増え、専門道場も開いた。

そこでは様々な神憑りが起こり、
霊魂の存在が明らかにされたが、しかしややもすると
興味本位になったり、悪霊に振り回される事もあって

『 あまり 霊学にこってはならぬ 』

という戒めが筆先に出るようになり、
騒動は鎮静していった。

かくて、明治二十五年の帰神以来 七年間、
様々な紆余曲折を経、苦労を重ねてきた開祖なおは、
喜三郎の活躍により天下晴れて艮の金神が世に出、
教えが拡まってゆくのを喜んだのであった。

やがて出た筆先に、
なおの末子すみ と喜三郎との結婚が神示される。

「 およつぎは末子の おすみ殿であるぞよ
  因縁ありて上田喜三郎は たいもうなご用いたすぞよ
  このおん方を なおの力にいたすぞよ ・・・ 」

「 これから出口なお と
 上田喜三郎と二人で世のあらためをいたさすぞよ  」

幼い頃から十年間、
あちこちで辛い奉公をしていた末子の すみ は、
この頃に ちょうど家に帰っていた。

明治三十三年旧一月一日。
喜三郎と すみ は、四方平蔵の媒酌で式をあげた。
時に喜三郎二十八歳、すみ十六歳。
ここに大本の基礎が成り、開祖なおが経(たて)糸、
会長喜三郎が緯(よこ)糸、すみが要の役となり、
大本救世神業の錦の機(はた)が、織られる事となる。

ところが、
この婚姻を聞き付けた長女よねの夫、大槻鹿造が
錆びた刀を手に、喜三郎のところへ怒鳴り込んで来た。

こら、貴様はどこの牛の骨か馬の骨かしらんが、
 わしが出口の長女が婿や。いったい全体、
 貴様は嫁をもらったんか婿に来たのか、どっちや

鹿造は札付きのヤクザ者 であるが、喜三郎は、

そないなこと、どっちか知らんわい。
  あんたは喧嘩売りにきたか。そんなら相手になろう

と、両肌ぬいで坐りなおした。
それを見た鹿造は あっけなくも

ウン、申し分が気に入った。
  若造のわりに いい度胸や。わしは帰る

とそのまま帰ってしまう … そんな一幕もあった。

それから開祖なおには、引き続き
厳しい予言警告の筆先が出され、その中に
「 出修 」 についての神示が、度々にあった。
出修とは あちこちの霊地に出かけ神命による修行をし
神事を遂行することである。

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出修

 
明治三十三年旧六月。

「 冠(お)島へ参りてくだされよ 」

そしてその ひと月のうちに

「 こんどは沓(め)島を開いて下されよ 」

と筆先が出たのであった。

この二つの島は、
日本海の舞鶴沖に並んで浮かぶ小さな無人島で、
綾部から 艮(うしとら)の方角(東北)に位置する所にある。

冠島、沓島は、
それぞれ竜宮島、鬼門島とも呼ばれ、ここは
神話の海幸山幸や、浦島太郎伝説がのこっており、
昔から女子が近づくと海が荒れ、
妖怪変化が現れて丸呑みにするという。
男子でも、一度は詣れ 二度と詣るなと畏められ、
伝説や迷信に満ちていた。

旧六月八日夕刻、開祖や会長は、
女子も二人伴う一行らと五人で綾部を発ち、
歩いて舞鶴に入って、そこからは舟を雇った。
天候がにわかに険悪になり 舟頭はためらったが、
これに 開祖なおは

神命であるから心配いらぬ

と断じて後へ引かず、
夜になった雨風の中に小船を出した。そして湾口から
日本海へ出る頃には、開祖の言葉通り
さしもの雨風も止んで暁方には 無事に冠島に着き、
天火明命・日子郎女命を祀る 老人神社に参拝して、
「 治国安民 」の 熱檮 を捧げた。

これより、ひと月後の旧七月八日。
開祖、会長一行は この度九人にて、先の冠島より
さらに難所とされる 沓島 参拝へと発った。

荒海の怒涛は沓島の断崖に砕け 近より難かったが、
ようやくにして着岸し、持参の神祠を組み立てて、
艮の金神はじめ 神々を奉斎し 天下安泰を祈願した。

この沓島こそは、
大本神話による 艮な金神 隠退の地 であり、
後の日露戦争中には 開祖なおが再びこの島へ渡り、
十日間籠って 平和祈願をしたのであるが、
この時、バルチック艦隊が
ウラジオストックに回航してくるというので、
日本国内では、上を下へと大騒動をやっていた。
それで、舞鶴鎮守府でも海上警戒に余念がない。
ところが、ある日、警備の望遠鏡が
沓島に奇怪な人影をとらえたので

「 あれは 露探にちがいあるまい!

と、丹後の浦々は
たちまち鼎(かなえ)の沸くようなありさまとなった。
慌てて警備船が沓島に来てみると、そこには
お籠り姿の白衣を着た 開祖なおが居た。

お前は何処の者か

綾部の者じゃ

何をしにきたか

神さまの御用できた

綾部の者なら 岩吉という者を知っておるか

奇遇なことじゃ、知っている。岩吉の家は
  私の家の隣じゃ、毎日バクチばかり打っておる

珍妙な問答だが、これではじめて
怪しい者ではないと判断されたのであった。

さてその後も各地の島や山、
神社などへの参拝がつづけられたが、

「 丹後の元伊勢に参られよ 」

との筆先が出たのは、
明治三十四年旧二月六日であった。
元伊勢は京都の加佐郡(現.大江町)にあり、
天照皇大神 を祀る社があった。

第十代崇神天皇のころ、
大和国笠縫からここに遷幸し、その後
伊勢にうつられた旧蹟なので 元伊勢といわれている。

その社の近くに巨大な岩穴があり、
つねに清水をたたえていたが、昔から汲み取ると
天災がおこるとして、汲むことを禁止されていた。

ところが お筆先には、
その水晶の水によって世界の泥をすすぎ、
身霊の洗濯をして 元の神世に返す … とあり、
旧三月八日、開祖、会長、すみをはじめ
一行三十六名が元伊勢に向かった。

そして無事に水晶のお水は汲まれて持ち帰り
神前に供えられたあと教会の井戸に注がれ、
以来、この水は 金明水 と呼ぶようになった。
また、すぐ隣の開祖たちが住む
出口家の井戸にも注がれ、銀明水 と呼んだ。

これらは、それぞれ
昭和十年の 第二大本事件で埋められてしまうが、
現在では 元に復されて、清らかな水をたたえている。

旧三月七日には、
出雲出修の神示が出た。元伊勢の 水 にたいし、
出雲は大社の 火 をもらう神事である。
七月一日(旧五月十六日)、
一行十五名が出雲大社へ向かった。

いでたちは皆、
ござと笠、サラシの脚半と紙巻き草履。
開祖はすでに六十五歳の高齢であったが、
五十里もの道のりを往復とも、一行の先頭を歩いた。
開祖は、

年寄りが、若い人の先に立って歩くのは
  あつかましいので ゆっくり歩こうと思うが、
  神さまが後から押されるので つい早く歩くのや

と話す。 同行の娘 すみ も、

ご開祖は 背後の神さまに
 もたれるような姿で、達者に歩かれた

と、後年に語っている。
出雲への道中、鳥取の賀露の宿で 喜三郎は、
すみのお腹に太陽の入る霊夢を見た。それは、
夫婦の長女 直日(三代教主)懐妊のしらせであった。

一行は十二日に大社に参拝し、
天穂日命の神代から代々引き継がれてきた
「 消えずの神火 」 を授かり、
檜皮製の三本火繩に点じて持ち帰る。

元伊勢の清水は、世界の泥を澄まし、
人民の身霊の洗濯のためであるが、出雲の聖火は、
世界の汚れを 焚き浄めるため といわれる。

これは、天津神系である元伊勢と、
国津神系の代表といえる出雲大社、この二つの神系が
融合せることの 「 型 」 と見ることが出来よう。

 

神々のたたかい

 
出雲から帰ってから、開祖と会長の間で
「 神々の争い 」 がおこった。

ことに二人が帰神状態になると、双方のぶつかりは激しく
普段は しごく仲の良い親子であるのに、神憑りになると
それまでの様子が、おそろしく一変したのである。

ある時、開祖には天照皇大神、
会長には素盞鳴尊の帰神があった。

「 素盞鳴尊が 高天原をとりにきた 」
「 素盞鳴尊も 小松林命も 肉体をおいて帰れ 」
「 小松林命が世を乱す、改心せい 」

と開祖は大きな声で言い、ドスンドスンと四股を踏んだ。
その時の声は、身震いするほどの豪放な声だったという。

一方、会長もそれに応じる。素盞鳴尊の神憑りになると、
会長には、自分の腕が直径五、六寸にも見えたという。
そして、周りの者が 豆粒のように小さく見えるらしい。

こうして互いに、物凄い勢いをもって
神々は 議論におよんだのであった。
しかし、こうした神がかりがおさまると、
いつもの仲の良い親子に戻った。

会長はん、えらい事でございましたな

いやいや、神さまは えらい勢いでしたなあ

これは 型 どすげなで

へい、そうですな。 あ、開祖さま、お茶がはいりました

という 睦まじいありさまであった。
しかしこの騒動は 近所の人々にも評判になって、

さあ、今日も金神さんの喧嘩聞いてこうかい

と大勢でやってきて家の周りを取り巻き、
柿の木には十人ほど登って見ていたそうである。
もっとも食傷してくると、

どうも金神さんの喧嘩は
  声や動きのわりに、内容がうけませんなあ

ふーむ、そうですなあ。
  外国がどうの、日本がどうのと一向につまらない

さあ、帰(い)のう、帰のう

と、ぞろぞろと帰っていったという。
こうして周囲に評判となってはと、ある時、開祖が、

 「 これでは かないません …

と 神に不満をうったえると、

「 なおよ、三千世界の因縁ごとであるから
  もうしばらく  辛抱してくだされよ ・・・ 」

と神の方がたのんだのであった。
これら神々の対立は、筆先にも

「 小松林命は ご苦労な かたき役 」

とあり、古事記神話にいう
アマテラスとスサノオの対立を反映する、
一つの型として大本がその舞台を演じたのである。

そんな折、筆先に、木の花咲耶姫の神霊の宿る
女の子が生まれる予告が出た。

「 こんどは木の花咲耶姫どのが、
  世に出ておいでる神さんと、
  世に落ちておりた神さんとの
 和合させる御役を神界から仰せつけがありたぞよ 」

そして明治三十五年三月七日、
会長と すみの間に女子が誕生した。
神命により、女の子は 直日 と名づけられ、
また会長上田喜三郎も、「 出口王仁三郎 」と改名する。

そしてこの後の明治三十六年には、激しかった
開祖と会長の 「たたかい」も、次第に静まっていった。

 

信仰の解釈

 
会長王仁三郎にとって、悩まされたことがあった。
教勢拡大に対する社会の妨害があり、それにも増して
内輪の古くからの役員信者達による、頑迷と狂信である。

彼らは筆先の表面の字句にとらわれ過ぎ、
その広大な真精神を悟り得ず、何かと会長に逆らった。

先にあった 神々の争いの間にも、例えば開祖の方は、
極寒といえども神の御用となれば、
火鉢を用いず、座布団さえ敷かない。
寒中であろうとも水行をいとわず、
その水行を役員はきそって真似た。
改心だと極端な水行を重んじ、
また開祖をまねて粗食をすすんで行った。

一方、会長は身体を潔めるなら
暖かい風呂でもよいではないかと言い、
改心は心の問題であると説いたが
当時の役員達は、開祖に加勢した。

筆先に、
洋服を着るな、靴を履くな、肉食をするな
という意味事があり、これを一般信者は
全くその通りに実践するのであった。
そして、布教の際に 会長が洋服と靴姿なのは、
悪人の鏡 と映ったのである。

会長が説くところによれば、筆先は、
近代社会に対し批判を簡潔素朴にいっているのであり、
それを狭義に受け取り実行するのは、迷信と
頑愚以外のなにものでもない。
一般の信者は筆先の字句をうのみにし、
西欧文明はもとより、学問や芸術、資本主義文化や
物質文明を全て否定し、神の立て替えによって、
洋服も靴も、科学も漢字までもすべてが無くなる
と思い込んでいた。

「 今の世の中は真っ暗闇である 」

と筆先に出ると、
真っ昼間に提灯を点して大道を歩いたものだった。

王仁三郎会長は、社会的な進出のため
論理的に説得力をもつ教義体系を
ぜひ持つべきであると考えたが、信者達は
そんなもの必要ない 」 という態度をとった。

外国や学問かぶれの会長は、
開祖の神業の妨害者だと決めつけ、ついには
王仁三郎を 暗殺しようとする一団までもあらわれた。

ある日、王仁三郎は宣教の帰りに谷にさしかかった時、
前方に 暗殺隊十人が待ち伏せしているのを霊視した。
そして、機先を制して彼らを大喝した。

おまえ達は なにをしているのか!

不意をつかれ、うろたえた面々は
あちらこちらの草むらから出て来て、

先生をお迎えに来ていました

という。対して王仁三郎は、

馬鹿を言え、こんな怪しからぬお迎えがどこにあるか
わしは うしろには目がないから、お前達が先にたて

と命じ、一行の一番あとからついて行く。
綾部に帰った彼らは、開祖からきつく叱られるが、
互いに罪をなすりつけ合うばかりであった。
しかし 王仁三郎は、そんな彼らを やはり許している。

王仁はつねに此等の役員信者の
 罪をゆるされんことを日夜神に祈りつつ、
 あまたの人の罪に代りて、
 千座のおきどをおひてたゑしのびたりき
  」

と、今にのこる当時の手記のなかで述べている。

これも、いた仕方ないこと、
神さまごとは一般の人間にはなかなか難しい。
神とは一体何か、
神霊は実在するか、という事を王仁三郎は

太平洋の水をインクに例えて、
 その膨大なインクを一滴余さず
 書きつくしたとて、神の説明をしきれるものではない

と語り、神から授けられた教旨、学則を
次のように述べている。

神は万物普遍の霊にして
   人は天地径綸の主体なり、
    神人合一して、ここに無限の神徳を発揮す

天地の真象を観察して、真神の体を思考すべし

万物の運化の豪差なきを視て真神の力を思考すべし

活物の心性を覚悟して、真神の霊魂を思考すべし

 

公 対 大本

 
王仁三郎がかかえた もう一つの問題は、
教団の合法化という懸案であった。大本は最初のころ、
政府の公認する教会ではなかったのである。

当時、天理教や金光教は、
教派神道の一派として公認されていたが、
大本のように非公認の宗教に対しては
国家の安寧秩序や、臣民の義務に反する恐れ
があるとし、内務省が監視の目を光らせていた。

公認教会でないという事は、
正式な布教所や結社でないことに、政府が
いずれ 干渉してくる事は わかっていた。
地元の警察も すでに

正式な許可をとらなければ布教活動を許さない

と、毎日やかましくいってくる始末であった。
これに対して開祖は、

警察がなんといおうとほっておきなされ

と、まったく取り合わない。
誇り高い開祖なおは 警察も役所もはねつけ、
あるとき役場から、孫の直日に種痘を接種するよう
いってきたが、開祖は

この子に疱瘡など植えたら、
 世界が泥の海になると神さまがおっしゃる

といって、がんとして応じることはなかったのである。

どうしても聞かぬなら、お前の家に大砲を向けるぞ

と警察はおどかしたが、

兵隊なと大砲なと向けるがよい。
  そんなことおそれる神ではない

と開祖は強気である。
幕末の一揆騒動などで もまれてきた開祖であること、
今どきの腰抜け役人どもがなんだ、という勢いであった。

これを、
会長や夫人のすみが心配して罰金を納入したりもしたが、
開祖を信奉していた熱血役員達は、後日そのことを知り
みの笠を付けて、警察や役所へ押しかける
というような 騒ぎにまで発展してしまう。

罰金を返せ、科料に処せられたとあっては面目が立たん

これでは役所も取り合わぬ。
しかし、どこまでも戦闘的な役員たちは、
福知山の検事局まで押しかけ、係りの者を困らせた。

頭にきた係官が

帰らぬと軍隊をさしむけて大本を取り潰すぞ

と おどしたが、

おもしろい、艮の金神と軍隊とどっちが勝つか勝負しよう

といい、まったく勇ましいばかりであった。
開祖の強気はよいとしても、大本を早く
独立した教団にしようと 燃える王仁三郎にとっては、
警察の激しい干渉を放っておくわけには、いかなかった。
これらの圧迫から逃れるためにも、
法人組織にする必要があったし、そのために一時的にでも
何処かの公認宗教に関連所属しようと考えるが、
しかし開祖は、他の教団に入ることをひどく 嫌った。
そりに加えて、熱血役員等が

艮の金神と軍隊と勝負しよう

などというから、ますます事がはかどらない。

艮の金神 とは、神典における 国常立尊であって
同じく神典における豊雲野尊を、坤の金神というが、
両神は対称の関係にあり、神道において
この世を造った創造神は 「天御中主尊」 であるが、
大本でいう 「艮の金神」 と 「坤の金神」 は
主神を働きを二つに大別した呼称であるから、
主神の大分霊といったところである。

開祖や役員が 先の金神さまの御威光にふるい立ち、
これが、あたるべからず勢いであるから
王仁三郎も困惑した。

神さんは偉いに違いないが、
人間は人間としての浮世の義理もある。
今回、下手にこの義理を欠くと、
軍隊が大砲をぶっ放つやもしれぬのだ。

それだから この世を悪の世というのだ

と王仁三郎がいって聞かせても、

元はといえば神さまの家来である人間が
  こんな世に してしまったので、
  これ以上ほってはおけんから
  艮の金神さまが開祖さまに命令を  …
 」

こんな浮世離れした問答をしていても、
教団はどうなるものでない。
こんないきさつもあって
王仁三郎は いっとき綾部を離れるのであった。

 

教団の基盤づくり

 
明治三十九年。王仁三郎は、
しばらく京都、大阪を中心に活動の拠点を移した。

まず、京都の 「皇典講究所」 に入学し、
国史や国文を学び、翌年卒業。つづいて、
京都府庁の神職試験を受け、合格する。

明治四十年五月には、
別格官幣社建勲神社の主典に補され、任官する。
ところが、王仁三郎に心を寄せる連中が、
神社にどっと押しかけ、これに対し宮司は、
官幣社の尊厳を傷つける行為だとカンカンに怒った。
こんなことから、宮仕えも半年ほどに神社を去る。

この後は、御嶽教や大成教、
そして前から因縁ある稲荷講社等も渡り、
大本の教団づくりや経営のために、
その要綱を学んでいくのであった。

当時、日本政府は新たに宗教を公認しない方針にあり、
この宗教政策のもとでは、教団の独立への道は難航した。
そんな中にあり、王仁三郎は研鑽を重ね、
合法化の準備を進めていくのであった。

明治四十一年八月一日。
王仁三郎は教団に 「大日本修斎会」 の名称を付け
暮れの十二月には綾部に帰って、新たな出発をはかる。

七十五条におよぶ堂々たる会則を立て、そして
教義のほか、祭式、祝詞なども定められ、九月には
記念すべき初めての「機関誌」も、発行される。

これで教団体制は整うのだが、ただ表向きは
 「大成教直轄、直霊教会」
 の看板を掲げねばならなかった。

王仁三郎が綾部を離れていた数年の間に大本は
めっきり錆びれてしまい、財政も窮迫して
開祖の筆先のための墨代や紙代にも こと欠いていた。
ところが、お筆先には その二年前から、
 

会長がこの大本を出たらあとは
  火の消えたように、一人も立ち寄る人民なくなるぞよ
  そうして見せんと、このなかは思うようにゆかんぞよ

 
 
とあり、筆先通り、王仁三郎の不在によって
その必要性が、役員らにも実感されだしたのであった。

帰綾した王仁三郎の精力的な働きによって、
大本はとみに活発となり、信者は増えた。
出版した機関誌も当時には珍しい活版印刷で、
丹波の片田舎に起こった 「立替え立直し」 の叫びも
王仁三郎の論説と共に広く全国に伝わり、
にわかに、社会の耳目を引かずにはおかなかった。

明治四十二年からは、
いよいよ造営が開始され、十一月二十二日には、
布教所の隣に ささやかながら神殿が立つ運びとなった。

開祖や会長の病気治しや奇跡により、
信者の数も増加の一途をたどり、
教線は伸びるとともに、ますます建物の必要が生ずる。

神苑は拡張され、絶え間なく槌音がひびき、
聖域らしい形は整えられていった。
 
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さて、王仁三郎が家を建てる時は、予算を立て、
金銭の工面をしてから、始める
というようなやり方はしない。
まず、手もとの五十銭で酒を買って大工を集め、

さあこんな建物を造ってくれ  」

と、注文するのである。

金や資材、人手は、仕事が進むに従って寄ってくる。
大低そんなやり方で年中、槌音が絶えなかったのである。

 

胎動と開祖昇天

 
近代日本の基礎を築いた明治時代は、
四十五年七月三十日をもって終わり、大正へとすすんだ。
王仁三郎は教団にあって いよいよ重視され、
大本の道は益々拡まっていくのであった。

大正三年五月。王仁三郎は、
信者達のいる公開の席上で 静かにこう予言をした。

いますぐ ヨーロッパで大戦争が起こる …

それから間もない六月二十八日、
オーストリアの皇太子夫婦が、ボスニアの首都
サラエボで、セルビアの一青年に暗殺された。
それから約一ケ月後の八月、第一次世界大戦が勃発。
不幸にして 王仁三郎の予言は、そのまとを得てしまった。
そして日本国は、八月二十三日、
ドイツと国交を断絶して この大戦に参加した。

この年から大本では用地買収も進み、
いよいよ本格的に、神苑が拡張されていく。
この頃、王仁三郎の陣頭指揮によって神苑内の高台に
池を掘ることとなったが、その完成までの逸話がある。

八月八日に地鎮祭が行われ、奉仕の信者達が参加し、
大勢で池の開掘作業がはじめられた。
朝早くから日暮れまで、勇ましく進められる。
ところが、屋敷地面は石ばかりで水の出る気配がない。
町の人も、大本さんは水の出ない池など掘って‥
と、笑って見ている始末である。
奉仕者が、これを王仁三郎に伺うと、

かまわん、もっと掘れ

とだけ言うのであった。
そこでさらに掘ってはいったが、数日あとに
王仁三郎が外出先から帰ってみると、
皆に頼んであっただけの仕事が出来ていなかった。
王仁三郎は、皆が飛び上がるような大声で怒鳴った。

どいつも こいつも出てうせい!!

叫び声に驚いて、老人婦人まで集まり、雪の降るなか
焚火をしながら 池掘り作業に従事したのだった。
夫人の すみ までも作業に加わったが、

なんぼ 神さまのお仕事というても、こんな真夜中にまで

と思ったという。
ところが、掘り上がったその十一月十六日、
綾部の町会議員らがやってきて、質山の水を引いて
防火用水にする工事が出来たのだが、その水路を
どうして大本の敷地内を通さないといけないので、
どうかその旨をお願いしたい、と依頼してきたのだ。

その依頼の日が、ちょうど池掘りが完成した日であった。
そしてその日のうちに、質山の水が流入して
池は 満々と水をたたえたのである。このとき、
役員、信者の感激は どんなだったろうか。

この池は、金竜海 と名づけられ、その中ほどには、
艮の金神の隠退していたという 冠島、沓島に型どった
小さい島が築かれ、もう一つ 神島 がつくられた。

この神島については、大正五年の五月のこと、
横になっていた王仁三郎の眼に、一つの島が映った。
間もなく、その島は播州高砂の沖にある
上島(かみしま)という事が判明する。

高砂市の南西沖合約六里半、瀬戸内海に浮かび
家島諸島の東端にあたる、岩の多い小さな無人島である。
古くから竜神が住むとか、いやそれは大蛇だとか、
腫々の霊異物語が 地元で伝えられている。そして、
王仁三郎の霊覚により、坤の金神 が鎮まると明かされた。
さっそく、その神霊をお迎えすべく 六月二十五日、
開祖、会長、総勢六十人の一行が上島に向かった。

王仁三郎は、島で神事を厳修し 持参した小さな祠に
坤の金神 を鎮祭して、綾部へと帰還した。
この神事の意義は、艮の金神 にたいする
坤の金神の奉迎ということで、開祖と王仁三郎の間で
お祝いの盃があげられたのであった。
大本ではその上島を 「神島」 と呼ぶようになり、
先の池(金竜海)につくられた神島に、
その 坤の金神 は奉杞された。
そしてこののち、開祖自身も驚くような筆先が出る。

みろく様の霊は みな神島へ落ちておられて、
 坤の金神どの、素戔嗚
尊と小松林の霊が、
 みろくの神の霊でけっこうな御用がさしてありたぞよ …

のちに王仁三郎が編纂する 「霊界物語」 には、

天地剖判の始めより五十六億七千万年の星霜を経て
   いよいよ弥勒(みろく)出現の暁となり、
   弥勒の神下生して三界の大改革を成就し …
  」

と示されており、筆先にある 「みろく様」 は最高神、
地の先祖に対する 「天の御先祖」 とあるから
この筆先の信者に与えた衝撃は大きかった。
以来、開祖の王仁三郎に対する尊敬は一層に深まり、
役員信者の態度も改まり、王仁三郎は活動しやすくなる。
それゆえ、この神島開きは 大本の歴史の中において、
最も注目すべき ひとコマであった。

開祖は、大正六年ごろから神苑から一歩も出ることなく
もっぱら神前に仕え、熱心に筆先を書いていたが、
大正七年の五月に入ると、その筆先がぴたっと止まった。

その理由を開祖にたずねると、

どういうわけか、このごろは神さまがお書かせになりません

と答えている。

そして終日、ご神体 や お肌守りを謹書しつづけた。
王仁三郎は、益々やさしく心を尽くして開祖に仕えたが、
ある日、建設の進む神苑の状況を見ていただきたいと、
みずから開祖を背に負って歩いた。

王仁三郎は、その憶い出を後に、歌にこう詠んでいる。

背を出せば教御祖は子のごとく 喜びてわれに負はれり
 わが御祖背なに負はれつ変りゆく 世の有様を語りたまへり
 銀髪を秋夜の月に照しつつ わが背にいませし御祖をおもふ

それでも、開祖はあとで しみじみと言った。

神苑が広くなって建物が増えてゆくことは
  誠にうれしいのですが、それより一人でも
  まことの人がでてきたら、なにかこの胸が楽になるのに …

その年の十一月にはいったころ、
その夜は大へん冷え込んだので、すみは開祖の床に
炬燵(こたつ)をいれて声をかけた。

早く おやすみなさいませ

開祖は 「 はいはい 」 と返事をして、

さあさあ、これで私のご用もすんだ。お前の言うようにするわ

と床についたのが印象的であったと、
後年になって すみは述べている。

十一月五日の夜、開祖は

今晩のお礼は誰かに代わってもらいます

と言った。

これまで、どんなに疲れた時でも
決して欠かさなかった 礼拝である。
厳冬でも神前の板の間の円座にすわり、
世界の大難を小難に、小難を無難にと、世の平安と
幸福を 朝に夕に祈りつづけてきた開祖である。

この日、開祖は

神さまは、もうお前はお礼せずともよい。
 明日からは聖師(王仁三郎)がお礼するとおっしゃる

と言って、しずかに就寝したのだった。
翌十一月六日の朝七時、
手洗いにたった開祖は、廊下で昏倒した。

王仁三郎は枕もとにかけつけ、開祖の顔をのぞきこんだ。
開祖はうすく目をあけ、王仁三郎に二言三言話しかけた。
それから昏睡の状態がつづき、午前十時半、
開祖 出口なお は、安らかに昇天した。
ときに 八十三歳であった。

昇天の瞬間、開祖の居間で祈願の祝詞を奏上していた
四方平蔵ら数人は、天上から珠をつないだ
美しい五色の紐のような霊線の降りるのを見た。

そして開祖は、麗しい姫神の姿となり
その霊線にのって 天に昇っていったという。

開祖の亡くなった瞬間、王仁三郎ははげしく泣いた。
大声で号泣した。 そのありさまは、

素盞鳴尊が青山を枯木の山にするほど激しく泣き、
 川と海を泣く涙のために吸い取ってすっかり干してしまう

                           (古事記・上巻)

ほどのものであった。

さて、開祖の日常は、ひそやかで ゆかしく、
思いやりと いたわりに満ちたものであった。
開祖と接した人は信者、未信者を問わず、
一様にその神々しさと 清純さにつよく魂をうたれた。

古刹の雲水にも似た立居のしずけさがあった。
ある芝居好きの人が、開祖の立居を見て、

あの品のよさは、どんな名優でも真似ができん

と、感嘆したという。

開祖は肌のきれいな人であった。その銀髪は
神々しく輝き、何ともおかしがたい気品に満ちていた。
いつも 苔の上に打ち水をしたような風情をたたえ、
茶の世界でいう ”和敬静寂゛そのものであり、
茶を学ばずして、類のない大茶人の赴きがあった。
そして質実剛健であった。開祖のこういう日常が、
おのずから周辺の人々を感化し、無言の導きとなって
いつとはなく、大本の教風がつくられていったのである。

また開祖は、生涯の間にただ一度も
お腹一杯の御飯を食べたことがなかった。
若い頃は貧乏のために食べられなかったのであるが、
晩年になっても、世の中にひもじい人が沢山いるのに
自分だけ腹一杯食べては もったいない、という心であり、
今一つは、世の大難を小難に … とお祈りするために
みずからに課した 贖(あがな)いの行でもあった。

明治三十八年の日露戦争の折は、神命により ただ一人で
沓島に渡って、三週間の祈願をすると言い出した。
娘の すみは、あまりの無謀に強く引き止めたが、
どうしても聞かれないので、声を大きくして

お母さんは何でも神さん神さんというて
  神さんが死ねというたら死にはるのか
  」

となじったが、それに対し、

ええ、ええ、死にますとも

といって、何とも知れぬうれしげな顔をしたという。
そういう開祖 なお であった。

deguchi_nao[1]
筆先には、こう示されている。

出口直というひと、むかしからこの世のかわりめに
   お役に立てる身魂であるから、
   苦労ばかりがさしてあるぞよ
  この世になれば、神の力にいたす取次であるぞよ
  この直は、むかしからの苦労というものは、
  この世には、まずない苦労いたした直であるぞよ
  この世の苦労が、一ばんかるいのであるぞよ
  」
                  (明治三十年旧一月十九日

十三日のあいだ食物をとりあげ、
  七十五日も寝さずに ご用さしたこともありたぞよ
  他人笑うておるあいだに、大もうなご用がさしてありたぞよ

                   (明治三十二年旧三月

 

白熱化する宣教活動

 
開祖昇天のあとを継ぐ教主は、すみ と神定されており、
王仁三郎は教主輔となり、この大正七年からは、
大本の全国的宣教が 一段とはげしく展開される。

各種の大本機関誌上では、幹部の友清天行が

この世界が 微塵に打ち砕かれる時期が
      今から一千日ばかりの間におこる
 」

と大胆な予測を発表する。
これは信者はもとより、社会一般に多大の影響を与え、
また多くの人の入信の動機ともなった。
大本全体が、そうした風潮になっていったが、
王仁三郎はこれを厳しく否定し、苦々しく思いながらも
渡るべき道程として 見ていたようなところがある。

その風潮をさらに煽ったたのが、浅野和三郎であった。
浅野は、王仁三郎に次ぐ教団の実力者で、
彼は 大本の指導者として、また筆頭幹部として
飛ぶ鳥を落とすほどの勢いを持っていたし、また
一高、東大というコースをたどり、海軍機関学校の教官、
英文学者としても名をなしていたインテリであった。
そんな社会的な前歴や地位からも、
大きな信任を各方面から得ていたのである。

しかし浅野らは、筆先を自己流に浅く解釈し、そのために
「 日本 対 世界 」 の戦争や 天変地異を強調し、
その論議は きわめてはげしく、
したがって宣伝の仕方も じつに熱烈であった。
大正十年立替え説 」 を唱え、

時は迫れり … 守護神も人民も すみやかに改心せよ

と大声で叫び歩いた。

時節の切迫をうったえるため、馬、自動車、太鼓、
あらゆる物をかりだして、はげしい口調で街頭演説し
また、旅館、劇場、集会場で講演を行った。

この頃といえば 第一次世界大戦は終わったものの
世界および日本が大きく動揺している時で、
こうした危機意識を煽る言説は、とくに
軍人や知識人の関心を引き、秋山真之(中将)をはじめ
海軍関係者やインテリ層が あいついで綾部を訪れ、
教説を研究し、鎮魂帰神を実修した。

当時、開祖の生き方を鏡とした役員、奉仕者達は
謹厳、清楚を旨とし、早朝に起きて清掃し、
無駄口をつつしんで 献労 や 業務 に励み、
粗衣粗食に甘んじ、身魂みがき に努め、
そのため 神苑内では 一種の風格ができていた。

ところが、そういう風格が ひと度 世間へ宣教に出ると
人柄が一変したかと思われるほどに、
激しい口調で叫び回ったのだから
不思議といえば 不思議なものである。

また、次々と綾部へ移住して来る人々の中に、
谷口正治(雅春)がいた。後の 生長の家 主宰者である。

彼は大正七年入信で、翌年春に綾部へ移住している。
鎮魂帰神 に 深い関心をもって入信し、
さらに、立替え立直しの主張にひかれる。
当時 谷口は、「 大本の聖フランシス 」 と自称して、
薄衣に荒縄 という、きわめて特異な生活を送りながら
浅野和三郎と並んで、めざましい文筆活動を展開する。

大正八年十一月には、
王仁三郎は 明智光秀が旧城亀岡城跡を買い取る。
この時 かつての天守閣は既に無く、石垣まで売り払われ
狐狸 が住むほどに 雑木雑草が生い繁っていたが、
すぐに一角を整備して道場を建て、大本本部とした。
ここは、いずれ「 天恩郷  」と名づく大神苑となる。

大正九年に入ると、宣教活動はさらに白熱化を帯びた。
一月二十五日には東京駿河台の明治大学大講堂で、
浅野らによる大講演会が開かれ、昼夜に大盛況となる。
さらには、慶応大学講堂や学士会館、有楽座、
大阪では中之島公会堂でも、講演会が催された。

こうして当時、貴族の中にも入信する人があり、
それらの人々が宮家の中までも大本神論を持ち込み
大本の話題は、上流階級へも しだいに浸透した。

大正の初めには 信者数千人にみたなかった大本は、
このようにして爆発的な成長を遂げ、世間を見はらせた。
それにつれて警察当局は大本に対する警戒を強め
いく度か 王仁三郎や幹部を呼び出して警告を発し、
じわじわと圧迫を加えるようになっていった。

また新聞雑誌には、大本を批判、攻撃する記事が増え、
その中には 興味本位にデッチあげたものも多く、
当局を いっそうに刺激することになった。

この頃、王仁三郎は一貫して鎮魂帰神法の禁止を告示し
また宣教の上で予言はつつしむようにと、注意も与えた。

しかし、その勢いはもう止まることを知らぬ有様だった。
そして多くの信者は、大正十年で世は終末になる、
天変地異で、世界は壊滅するのだと信じたのであった。

ただ王仁三郎はこれについて、
明らかな神示解釈の誤りであることを始めから知りつつ
暗に、黙認をつづけるようなところがあった。これは、
あえて、そうさせる必要があったからなのである。

 

第一次大本事件

 
万象万物には、実あれば 「核」  がある。
中心があるから全体があり、聖師王仁三郎は

「 地球は天球の縮図である 」

と説き、宇宙の縮図が地球、
そして地球世界の縮図が日本国であり、
これら三千世界の立替え立直しの 「型」 として
大本がその役を担うと説いたのであった。
大本で起こった雛型が、まず日本にうつり、
日本に起きた事が世界にうつる、というのである。

筆先にも示される。

世界にある事変は、みな明治三十二年から
  大本の内部に かた がして見せてあるぞよ
 」

この内部のごたごたが世界に出来るぞよ
  いつ大本にこういう事がありたという事を
  つけとめておいて下されよ。
 世界の かがみ になる大本であるから
 世界にあること、雛型(かた)をして見せるぞよ
  」

「  大本にあったことは必ず日本と世界に実現する
  大本は世界の かた であるから、
  箸のころんだ事までつけとめておいて下されよ
 」

大正十年二月十二日未明。
政府当局の検事総長・平沼騏一郎
その指示をうけた京都府警察部長・藤沼庄平が動かした
武装警官隊が、大本綾部と亀岡の 神苑聖域を襲った。

この時の容疑は、不敬罪 および 宣伝法の違反である。

王仁三郎の部屋、浅野らの幹部宅や信者宅が捜査を受け
筆先、掛軸や原稿、手紙類、日記、写真、帳簿、
私物にいたるまでの 全てのものが押収された。
二代教主のすみに、捜査官は、

皇室を擬する 錦の御旗はどこにある !?

と質したが、この時すみは あきれながらも、

それは実物の旗ではなく、筆先に示された誓いで、
  大本の経、緯の経綸の機
(はた)をたとえたものです。
 そんな旗やのぼりのようなものが あるわけありません
  」

と答え、捜査官たちは苦虫をかみつぶし引き下がった。
王仁三郎は 大阪梅田の支部で執務中のところを検挙され
二条城北側にあった 京都監獄未決監に収容された。

王仁三郎は前々から、事件の勃発を予知していて、
その前夜、支部内の青年を呼び集め、

あのな、もうちょっとすると
  面白い芝居があるぞ。腹を決めて見とれよ

といって、遅くまで御馳走を食べさせた。

この事件は、当局が大正八年以来 捜査を重ね、
「 立替え立直し 」 とか 「 大正維新 」 を 旗印 に
多くの上層階級人や有能人士が集まる事実や、
また、「 竹槍十万本を隠し持つ 」などのデマも聞こえ、

これは 容易ならぬ社会運動に発展するかも知れぬ …

として恐れ、大本撲滅の準備が極秘裡に進められていた。

ところがいよいよ検挙し、敷石をおこし、畳をはがし、
床をつついて隅々まで点検してみたが、竹槍はもとより
当局が期待するものは、なに一つ出てはこなかった。

これでは検挙の面目が立たぬ当局は マスコミを操作し、
予審終結で記事解禁となると、新聞は一斉に書きたてた。

国体を危うくする大本教の大陰謀
謎の大本教 」  「 淫祠邪教

国家内乱の準備行為として
  武器弾薬を隠匿し竹槍十万本用意

果ては 女性問題まで捏造し

悪魔の如き王仁三郎

と、あくどい記事を帆走して 邪教の印象を
一般臣民にあたえることに 骨をおったのであった。

検挙から約四ヶ月後の六月十七日、王仁三郎は
百二十六日間の勾留のあと仮釈放され 綾部に戻った。

裁判は 十月五日、王仁三郎には不敬罪で懲役五年、
浅野には 懲役十ヶ月の判決が下ったが、
この判決を大本側と検事、双方が不満として控訴し、
大審院までいくが、大正天皇の崩御による大赦令で
結局は 昭和二年に免訴になることとなる。

しかし、第一審の判決から一週間目の十月十一日に
完成したばかりの 本宮山神殿取り壊し命令が出た。

命令の根拠は、明治五年の大蔵省発令による
無願の社寺を建立すべからず 」を引き合いにした。
これはさすがに官憲の横暴として、議会や
法曹界でも問題にはなったが 強行されてしまう。
警官と人夫の五十人余りが 破却作業にあたり、
同月二十日から一週間をついやし、信者の真心である
荘厳な神殿は、すっかり壊されてしまったのである。

時に十九歳になった三代目の直日は、こう詠んでいる

よしや この神の宮居をこはすとも
   胸に いつける宮は こはれじ
 」

この歌の通り、心の中の宮はこわれず、大本はこの中で、
次の大発展への準備が着々と進められていくのである。

事件後、当時の幹部達は多くが大本を去り
浅野和三郎は 「 心霊科学協会 」を立ち上げ、
谷口正治(雅春)は 「 生長の家 」 を創立している。

 

霊界物語

 
大正十年の弾圧騒動後、聖師王仁三郎は
現代の大黙示録ともいわれる 神秘の書
「 霊界物語 」の編纂を開始する。

先の騒動の中、王仁三郎の一審判決の日から
数えて三日目の十月八日に 神示があった。

明治三十一年旧二月
 神より
(高熊山にて)開示しおいた霊界の消息を発表せよ

さらに十月十六日には、
水色の羽織を着た開祖の神霊が王仁三郎の前に坐り、
その発表についての きびしい催促をされてきた。
これに王仁三郎が、

「 ご神勅にしたがい、早々に発表にとりかかります 

と言うと、開祖はよろこばれ、十五、六の娘のような
うつくしい顔になられて、姿をかくしたという。

この「 霊界物語 」は、四六判の三、四百ページの本が
全八十一巻からなる驚異的なスケールで、
王仁三郎が 数名の筆記者をそばにおいて口述し
早いときは 一冊を二日の勢いで書き上げた。

過密なスケジュールの合間をぬって 毎日口述をつつけ、
五年弱で七十二巻、および「 入蒙記 」を完成させた。
その後、昭和八、九年に「 天祥地瑞 」九巻を口述、
総じて、全八十一巻となったのである。

この壮大な物語の由来を、第二巻の序にこう述べている。

本書は瑞月(王仁三郎の号名)が、明治三十一年旧二月九日より
  同月十五日にいたる前後一週間の荒行を神界より命ぜられ、
  帰宅後 また 一週間床しばり修行 を 命ぜられ、
  その間に 瑞月の霊魂は 霊界に遊び、いろいろと
  幽界、神界の消息を 実見せしめられたる 物語であります。
  すべて霊界にては 時空間を超越し、遠近大小明暗の区別なく
  古今東西の霊界のできごとは、いずれも
  平面的に霊眼に映じますので、その糸口を見つけ、なるべく、
  読者の了解しやすからんことを主眼として口述いたしました 

そして その内容は、宇宙の創造から 主神の神格、
神の世界的経綸、神々の地位因縁、大本出現の由来、
霊界の真相、神と人との関係、人生観、世界観、
政治、経済、芸術、教育など、
あらゆる事を説示し、理想社会たる

みろくの世 」 

実現のための方策が、懇切に示されている。
そしてそれは、
そのまま、開祖の筆先の真解書でもあるのだ。

それがゆえ、この 「 物語 」 の中には、その随所に
平和や人類愛が展開され、排他的な愛国主義を否定し
世界主義的な思想を貫いているから、
当時の極右的な国家思想の政府当局には
やはり、危険と映っていった。

しかし、一方ではこの物語の発表によって
大本信者の信仰は、急速に成長していくのである。

かつての信仰は、素朴であり、また純真であり、
狭い渓川の激流に似ていたが、この物語によって
信仰が 洋々たる大河の流れに導かれたといえる。

王仁三郎は、いつの間にか出来てしまっていた
教団の 「 古い殻 」 を打ち破ることに腐心し、
それは 物語の中で説かれるだけでなく、
折にふれての談話でも、懇ろに諭された。

… 愛国主義があやまって排他におちいり、
  自己愛になってしまってはよくない。
  世界同胞の考えを持たねばならぬ。排他は神意に反する。
 … 今後は世界を愛し、人類を愛し、
  万有を愛することを忘れてはならぬ。
  善言美詞をもって世界を言向和(ことむけや)わすことが
  もっとも大切である。 … 大本は大本の大本でもなく、
  また世界の大本でもなく、神さまの大本、
  三千世界の大本であることを取り違いしてはならない …

さて 「霊界物語」 は全体として、大河小説のように
時間と空間を超越した、壮大なるドラマという仕立てで
さまざまな謎をちりばめた、黙示録的書物ともいえよう。

悠久の太古の神々の物語、という構成で、
国祖国常立命 = 艮の金神、その神聖支配の隠退、
盤古大神、大自在天神など諸神の多数決による世界支配
および、これら三派の神々たちによる対立、
という基本構成から 編纂されている。

その舞台は全世界で、エルサレム、アルゼンチン、
ヒマラヤ、ロッキー、アルメニア等の地名がとびだし、
登場するのは、素戔嗚尊、天稚彦、玉依姫、といった
古事記や日本書記にも出てくる 有名な神々から、
五十子姫、梅子姫、竜国別からお百合、蛇公、蜂公、
さらには ウラル彦、ブランジー、テールス姫、
チーチャーボールといった横文字名までが登場している。

そして突然、開祖の筆先が出てきたかと思えば、
コナンドイルの心霊研究に言及したり、さらには
ロシア革命の英雄トロッキーが登場したりもする。

「 霊界物語 」には、
神界のこと、限界での過去に起こったこと、そして
いま起こりつつある事、これから起こること、という
全宇宙の過去、現在、未来のすべてが描かれている。

それは地球の太古の歴史を記録した書でもあれば、
予言の書でもあり、宇宙の神秘を示した書といえる。

王仁三郎によれば、この物語の解釈は
じつに、三十六通りにおよぶ読み訳がなされるという。

 

予言者 王仁三郎

 
大正十年十一月四日。
この日、王仁三郎は数名の信者と面会中であった。
その話の合間に、ふと目を閉じたかと思うと突然、

あっ、原敬(はらたかし)が やられた!

と叫び、信者たちは驚いた。

東京駅で 暴漢に襲われよった

いまですか?

いや、これからだ

ときの総理・原敬は、平民宰相とよばれ期待されたが
無茶な膨脹経済政策、普選法案にたいする抑圧で
大衆からの人気を失い、さらに強引な党略政治、
党勢維持のための収賄等で、連日新聞に叩かれていた。

首相 原敬 が暴漢に襲われたのは、
王仁三郎が言葉をはなってから、二時間後の事であった。

大正十二年の春、
幹部の筧清澄が教主殿で勉強していると、
王仁三郎が ひょっこりあらわれた。

なにをしとるんじゃ

はい、霊界物語を拝読させてもろとります

熱心やのう。けっこう。けっこう。
  ところで、いまに東京で大地震がおこる

どうしてですか?

この長雨がようない

霊界物語 に示されてありましょうか?

「 ある …
  エトナの爆発と書いて示しておいた、まえに、
  東京は もとのすすき野になる
  と書いて発表したら、発禁になってしもうた。
  こんどは発禁にならんよう、しかもようわかるよう、
  エトナの爆発と書いておいた。エトは江戸、
  ナは万葉時代の言葉で地の意味じゃ。
  エトの地、すなわち 今の東京じゃ  

それで、時期はいつ頃でしょうか … 」

この秋だ、はじめが危ない

そして迎えた大正十年九月一日、
関東一円を 大地震 が襲った。

この時、すでに一部の人々は

 「 予言が当たった  」

といって騒ぎはじめていた。
先の 「 すすき野 」 の予言は発禁になったとはいっても
広く世間には知られており、新聞やマスコミには

出口氏の予言的中  」

と報じるところも出てきた。
王仁三郎は九州阿蘇に居たが、ただちに綾部へ帰る。
その帰りの汽車の中でも、王仁三郎に気づいた乗客達が

出口さん偉い  」
ようやりましたな  」

と さけびだす始末 … 王仁三郎は、情けなかった。

予言が的中したと世間はいうが、こういう予言は、
むしろ的中しないことを喜ぶべきなのではないか …
的中しないと 「嘘つき」 よばわりし、的中すると
被災した人々の不幸もかまわず騒ぎ立てる。
まったく大衆とは無責任なものである … と。

王仁三郎は信者たちに、この際は慎重な態度をとり
くれぐれも、管憲を挑発することのないよう諭した。
大本の各支部には、活動は被災者救援に限定し、
いっさい、震災に関する予言を口にするなと命じた。

世間離れした論を世間に向け、
大きく掲げ過ぎることを、自粛させたのであった。

東亜圏へ

 
関東大震災の前年、大正十一年の九月、
大本綾部に バハイ教の宣伝使フィンチが訪れている。

バハイ教は、1844年にアブドルバハーがイランで創立。
イスラム教系の新宗教であり、人類同胞主義を唱え
万教同根と各宗教間の協力と提携をさけび、
米国に本拠を構えて 北米や欧州に教線をひろげ
国際的な布教活動を行っていたのであった。

バハイ教では、その国際的な活動の一環として
国際語・エスペラントを導入していたが、
王仁三郎も早くから このエスペラント語に着目しており
これを契機として、翌大正十二年には大本にも採用する。

エスペラントとは、ポーランドの眼科医ザメンホフ博士が
人類愛の精神に根ざして、1887年に成した国際語である。
彼は、民族の対立の原因として、言葉の違いを痛感し、
民族間の憎しみや戦争をなくすために学びやすい
「 共通語 」が必要であることに気づいたのである。
当時エスペラントは、発表されてまだ三十六年だったが、
世界各地にこの運動は拡がり、日本でも
黒板勝美博士らの先覚によって、
組織的な普及活動が はじまっていたのであった。

「 霊界物語 」の刊行によって 大本の信仰が渓川から
洋々たる大河に導かれた訳だが、さらにその大河の上に
爽やかな新風を吹き渡らせたのが、エスペラントである。
大本事件による抑圧のため、鬱屈しがちな教団に、
海外宣教の大構想へと、奮い起こさせたのであった。

このエスペラント語を駆使し、大本は国際的に拡がり
世界各国の様々な宗教団体と、繋がりを持つようになる。
そんな中に、中国で起こった新宗教である
道院・紅卍字会(道院の外郭活動団体)があった。

発祥は大正五年頃、
中国三東省浜県の県知事・呉福森と
駐防営長・劉紹基の二人が、県の役所に神檀を設け、
フーチという神示伝達を自動書記する帰神法で
神託を乞うたことに始まったとされる。
信仰心の深い二人は、何事をなすにもこれを常とした。

ある日、尚真人 という仙神が神檀に憑り、

老祖久しからずして世にくだり劫を救い給う
    まことに数万年遭い難きの機縁なり、
         汝等 檀を設けてこれを求めよ

と、根源的な神からの言葉が取り次がれた。
道院では、この老祖を 「至聖先天老祖」 と呼び、
その下に、世界五大宗教の教祖である、老子、釈迦、
孔子、キリスト、マホメットを祀り、五教同根を唱えた。

そして、

  万有和楽の 世界天国建設の天の時が 近づいた

と主張したのであるが、
これは大本の主張するところと、まったく同じであった。

王仁三郎はこれについて、老祖とは国常立尊の別名
同神異名であると、説明している。

道院では、神示のことを 「檀訓」 と呼んでいたが

日本の首都に大地震が起こる

という檀訓がくだり、さらには

日本に行けば道院と合同すべき教会がある

と示されたのであった。

当時、中国南京の日本領事であった 林出賢二郎は
大本信者であったが、道院から白米二千石と銀二万元を
まだ起こってもいない、震災の救援として託され、
奇妙に思ったが ともかく何かあるのだろうと、これを
日航汽船に託し 東京へ向かわせたのだった。

そして関東大地震が発生する九月一日には、すでに
横浜港に、道院からの義捐米等の救援が接岸していた。
この不思議にうたれた林出は、大本と道院の間に立ち、
日本に震災慰問へと出発する道院一行団に、
王仁三郎と会う事をすすめ、その手はずを整えた。

一行は十一月三日に綾部を訪れ、王仁三郎と会見した。

こうして両団体の交流は、緊密化して行き、
王仁三郎は 至聖先天老祖 の地上代行者として
その指導力は、東亜圏にまで及ぶようになっていった。

 

入蒙事件

  
大正十三年二月、
霊界物語の口述を 大半終えた王仁三郎は、
破天荒ともいえる、蒙古入りの壮挙を決行する。

東亜の天地を精神的に統一し、
 次に世界を統一する心算なり。ことの成否は天の時なり。
 煩慮を要せず、王仁 三十年の夢 今や正に醒めんとす …


という文句からなる、長文の手記を置いて旅立つ。

この最終の目的は、精神的な世界統一であったが、
当面は、蒙古の原野を開拓して宗教王国を建設し、
日本人、朝鮮人の人口食糧問題の解決を図り、
もって東亜の動乱を未然に防ぐにあった。

かくして大正十三年二月十三日早朝、
王仁三郎は未決仮釈放中の身上でありながら
三人の供を連れて、ひそかに綾部を抜け出し
朝鮮を経由し一路、奉天へと向かうのであった。

この時、供をしたのが、植芝盛平(のちの合気道創始者)
松村真澄(法学士)名田音吉(理髪師)の三幹部であった。

二月十五日、一行は、蒙古の英雄といわるる馬賊、
盧占魁(ろせんかい)将軍と会見する。
盧占魁は、このころ満州を支配していた軍閥の
張作霖(ちょうさくりん)と盃を交わした客分である。

盧占魁は、観相学(人相判断)に通じていたが、
王仁三郎を一目見るなり

 「 三十三相具備の菩薩相 」

であると驚き、部下になることを誓い従ったのであった。

王仁三郎はこうして、大本の紋章である日月地星の旗を
盧占魁の精鋭隊三千に授け、神軍を組織して
蒙古の平原に乗り出していったのである。

行く先々での布教は、病気を治したり、また
雨を降らしたりしながら進み、東方の聖者来たるの噂は
たちまち満蒙の民衆のあいだにひろまった。
そして、それはいつの間にか、

王仁三郎は ほんとうは蒙古人であり、
  興安嶺の部落に生まれたが、幼くして父をうしない、
  母は王仁三郎を抱いて各地を放浪するうちに
  日本人と再婚し 六歳のときに日本に連れて行かれた
  」

という話や、

王仁三郎はジンギスカンの生まれかわりである  」

といった、途方もなく飛躍した伝説にまで成長した。

しかし、当時の満・蒙・支(現在の中国)の政治状況は
極めて複雑であり、王仁三郎一行に対して
最初のうちは好意的だった張作霖も、情勢が変わり
一行の勢いの強さをみて、強打な勢力になることを恐れ
にわかに態度を変えて、ついには討伐の判断を下す。

六月二十一日夜、
王仁三郎一行は、パインタラにて討伐軍に包囲され、
すべての武装を解かれて、盧占魁は銃殺、
王仁三郎らも、そのあと銃殺と決定した。

そして、機関銃を目の前にされた王仁三郎は、
この時、おもむろに 辞世の歌を詠んだ。


 
身はたとへ蒙古の野辺にさらすとも
  日本男子の品はおとさじ

  いざさらば 天津御国にかけ上がり
     日の本のみか 世界まもらん

ところが危機一髪で突然、銃殺執行が中止される。
これは、一行が捕らえられた事を当地の日本人が知り、
すぐに日本領事館に知らせたため、
土谷書記官がとんできて 中止させたのである。

「 責付中の刑事被告人であるから 」

との理由で引き渡しを申し入れ、七月五日、
大連水上署から、ただちに内地へ送還される。
このころ日本では、すでにマスコミが この入蒙事件を
面白おかしく騒ぎ立て、報道を展開していた。

七月二十五日、
一行が下関に護送されてくると、
大勢の民衆が ワーッと群がって、
まるで凱旋将軍のように出迎えた。そして

 「 王仁三郎が満蒙でひと暴れした

という報道は、
王仁三郎の評価を一躍にして高め、政治家の中にも

 「 出口は偉大なり

という者が出てくるようになった。

このあと王仁三郎は再び獄舎に入るが、
盛んな保釈運動等にも助けられ、
十一月一日には自由の身となった。

 

入蒙記[1]

世界へ進出

 
約百日間の獄中生活を終え、綾部に戻った王仁三郎。

蒙古での苦労と監獄を抜けて、
当分は静養をするのかと周囲の人々は思っていたが、
その予想は大きくはずれ、
王仁三郎は ますます軒昂たる意気をもって
世界的経綸 を押し進めていくのであった。
 
od59[1] 
 
世界に一種異なる、教義、主張や伝統、歴史等をもつ
八百万の宗派を ひとからげにしよう というのだから、
その構想だけでも、大変なものである。

しかし、王仁三郎は実際にこの大仕事をまとめてしまう。

朝鮮の普天教と繋がりをもち、回教とも交流を始め
さらに 「世界宗教連合会」 の結成に乗り出す。

大正十四年五月二十日。北京の悟善社において、
道教、救世新教、仏陀教、回教、仏教、キリスト教など
世界の宗教が参加して 発会式が執り行われ、
のちに普天教やドイツの白色旗団も加わることになる。

その総本部を北京に置き、東洋本部は亀岡に置かれた。
こういう事が素早く実現したのは 言うまでもなく、
入蒙によって王仁三郎の実行力が 各宗教の領袖達に
じつに高く 評価されていたからであった。

そして、六月九日。
王仁三郎はさらに 「人類愛善会」 を設立した。

それは普遍の愛精神と、人類同胞の思想に根ざして
有形無形の壁を超えた、恒久の平和世界を実現せんとの
大理想を趣旨に掲げたものであった。
その趣意書には決意がうたわれ

「  本会は
  人類愛善の大義を発揚し、全人類の親睦融和を来たし、
  永遠に幸福と歓喜とに充てる光明世界を実現するために、
  最善の力を尽くさんことを期するものである。

  そもそも人類は 本来兄弟同胞であり、一心同体である。
  この本義に立帰らんとすることは、
  万人霊性深奥の要求であり、また人類最高の理想である。

  然るに近年世態急転して世道 日に暗く、
  人心日にすさびてその帰趨(きすう)
  まことに憂うべく、恐るべきものがある。

  かくの如くにして進まんには、
  世界の前途は思い知らるるのである。されば我等は
  このさい躍進して、あるいは人種、あるいは宗教など
  あらゆる障壁を超越して人類愛善の大義に目ざめ、
  この厄難より脱し、さらに進んで
  地上永遠の光明世界を建設しなければならぬ。
  これじつに本会がここに設立せられた所以である   」

と、このままでは世界情勢は
大変なことになるという、危機感も訴えられた。

そして同年十月一日には、
月刊 「人類愛善新聞」 を創刊し、この采配は
王仁三郎が直接ふるって、その思想を広めていく。

この人類愛善会の創立は、大本に凄まじい勢いをあたえ
世界進出の先駆けとしての大いなる役割りを果たす。

創立二日後の六月十一日、王仁三郎は宣伝使として
幹部の西村光月を欧州に派遣し、九月には早くも
人類愛善会欧州本部 が設立されている。

さらに西村の活躍によってその支部が、スイス、ドイツ、
フランス、イタリア、チェコスロバキア、ブルガリア、
ハンガリー、ポーランド、ペルシャ、スペインなど
欧州全域にわたって 設置されたのであった。

また大本沼津分所長であった近藤勝美と、近藤の親族で
信者の石戸義成により ブラジル進出も果たし行く。

ブラジルはカトリックを国教としていたため、大本や
人類愛善会の活動には、ブラジル政府の弾圧があった。
近藤や石戸らが、死刑騒ぎとまでになったのである。

これは彼等が、カトリック以外の他宗教の布教を
全面禁止している州で 数千名の信者を集め、
日本式の祭壇に 参拝させたとの理由で検挙され、
強制投獄されたのち、死刑に処すことになり、
深夜、パラナイー河橋上にて刑を執行するとされた。

この騒ぎで、信者達が鉄砲まで持ち出して警察署を囲み
近藤、石戸らを釈放しなければ、火をつけて
署もろとも叩き潰す…という緊迫事態にまでなっが、
当地の政治家や有力者が警察側に譲歩させて
幸いにも、ことなきを終えたのであった。

これらの苦難を乗り越え、やがてブラジルを中心に
南米大陸各地へと、その勢力が拡がっていった。

昭和四年には、
北米カナダに大本支部が置かれ
さらにはボルネオ、フィリピン、マライ半島、南西諸島、
そしてオーストラリアと、世界の各地に次々に
大本や愛善会の支部が 置かれていった。

 
 

大躍進

 
大正十四年六月三十日、王仁三郎は神示により
 「 瑞雲真如聖師 」  と呼ばれる。

同時に、教団活動の中心舞台を亀岡に移すことになり、
亀山城跡である 天恩郷 の本格的な建設が進められた。

そして綾部は祭祀の中心聖地、梅松苑 とされ、
二大教祖と二大聖地が 実現する。
聖師は亀岡天恩郷の建設にも陣頭指揮をとり、
一木一草にいたるまで、その配置に気を配った。

大正十五年。教団はいよいよ充実し、
聖師を訪れる人士は、引きもきらず多忙になる。
その来訪者の中に、内田良平や、頭山満などがいた。

内田良平は福岡出身。軍略家国士として一流を極め、
当時の政界でも、彼は一目も二目もおかれていた。
その内田が、初めて大本を訪れた時のこと …
まず風呂を、とすすめられるままに湯につかっていると

湯かげんはどうです  」

と焚き口から、火守り人が声がした。暫くの後、
その火守り人が洗い場にあがってきて、背中を流した。
ひと風呂あびた内田は座敷に通され、
身づくろいをして待っていると、やがて聖師が現れた。
内田は聖師をひと目見て 「あっ!」 と驚いた。

それはさっき焚き口にいた、そして背中を流してくれた
火守り人であったからである。

内田は聖師に深く心服し、それからはなにかと
聖師王仁三郎のために 協力を惜しまなかったという。

また、頭山満は内田の先輩挌の大国士であり、
支那革命の陣中に 大砲を引っ張って 孫文を慰問し、
このとき反対派が突きつけた銃口に
タバコの煙を吹きこんだほど、豪胆な男で知られた。

頭山満と王仁三郎の初面会は、人間と人間の
貫禄のぶつかり合いであった … といわれが、
この二人も、たちまちにして意気投合している。
 
Oni_Toyama_Uchida[1]
        (王仁三郎、頭山、内田)
 
聖師は、神業に対してはこの上なく真剣であるが
一面、ユーモアに溢れ どんな偉い人と会っても、
青年と会っても、その態度は変わらず奔放であった。
殺伐で凄惨なことを嫌い、「霊界物語」 も惨劇や
悲しい口述は 極力さけている。
小さな虫を殺すのも嫌であるし、魚料理も

姿のまま出されるのは かなわん  」

という人であった。
庭の雑草を抜くときも、
すまんなあ  」と謝って抜けよ … と若者を諭した。

  大本の 教(のり) の
 みなもとたづねれば ただ愛善の光りなりけり

                       ( 聖師 詠 )

大正天皇の崩御があり、改元されて 昭和 となる。
やがて大赦礼が発せられ、第一次大本事件は解決、
聖師王仁三郎は、大審院にて免訴となったのであった。
聖師はただちに郷里穴太の小幡神社と、
丹波一の宮・出雲大神宮に参拝して奉告をした。

暗雲晴れて、晴天白日となった大本は活気がみなぎり、
ことに天恩郷建設には 全国から元気な奉仕者が集い
毎日のように、勇ましい槌音がこだました。

光照殿、高天閣、月宮殿、明光殿、春陽閣、秋月亭
等、次々と大小の建物が並び、
明智光秀の築城当時に勝る、偉容が現出する。

昭和六年。聖師満六十歳の祝いを期して、
教団は、総躍進の態勢に入った。
同年九月八日、王仁三郎は

これから十日後に
  大きな事件が起き、それが世界的に発展する 

という予言をする。
そしてその十日後の九月十八日、満鉄柳条溝において、
満州事変に発展する 鉄道爆破事件が起こった。

その憂事を背景として、十一月に、大本の全国統一組織
昭和青年会 」を編成し、聖師みずから会長となる。
これは服装も カーキー色制服で統一して団体訓練を行い
聖師王仁三郎直属の 親衛隊的な様相となり、
その行動は、極めて軍事色の濃いものとなった。

昭和九年三月、
「 人類愛善新聞 」の発行部数が、ついに百万部を達成。
聖師王仁三郎は、前々より

「 人類愛善新聞が百万部出たら、神軍を率いて決起する  」

と予告していた。そしてこの頃から
日本の各界要人とつながりを持つようになり、
宗教家としての枠を過ぎた、一種危険なやり方に出る。

そして代議士・長島隆二や 公爵・一条実考、そのほか
皇族の一部を含む有志とともに 「大日本協同団」 という
愛国団体をつくる案を、掲げるに至ったのである。
これには 政界、財界、学界、宗教、法曹、愛国団など
あらゆる方面の有力者から 賛同を集めたが、しかし
協同団の構想は 人事などの問題が生じたため実現せず、
最終的に、大本をそのものを母体にして
昭和神聖会 」 の結成に至ったのであった。

昭和九年七月二十二日、
東京九段の軍人会館で、その発会式が盛大に行われた。
参加者は会場の外まであふれ、三千人を超える反響で
当時の愛国団体としては、他に類をみない規模である。

昭和神聖会のスローガンは

「 天産自給 」 「 皇道経済 」 「 土地為本 」

の三本柱にて、統管に出口王仁三郎、
副統管に内田良平らが就任し、その下に神祇部、
政治経済部、外交部、思想教育部、遊説部、
統制部、経理部等の各機関が置かれたのである。

 

第二次大本事件

 
かくして発足した昭和神聖会。

その勢力は創立から一年で、国内に地方本部二十五、
支部を四百十四、会員と賛同者合わせて八百万人という
空前の大規模な組織へと発展していた。

ここまでに勢力を拡大した大本と昭和神師会を、
国家当局が 大きな脅威として見るようになるのは
当然の流れであり、政府は再び教団弾圧に乗り出す。

当局はまず、全国に特別情報網をめぐらせて
検挙に必要な 証拠をやっきに集めていった。
昭和十年三月下旬には、滋賀県大津市と京都市内に
偵察隊のアジトをつくり、証拠資料の整理を行う。
第一次弾圧のときは、不敬罪が適用されたが、
この度は、治安維持法の立証に 力点が置かれた。

治安維持法は大正十四年に立法された法律で、

 国体を変革することを目的として
 結社を組織すたる者は 死刑または無期懲役、
 情報を知りて結社に加入したる者は 二年以上の懲役に科す

というものであるが、大本をこれで摘発するには
当局側も、かなりの困難な作業となった。
結局 目をつけたのは、昭和三年に行われた
「 みろく大祭 」という、神奉行事に過ぎなかった。

王仁三郎が、幹部を従えて至聖殿に昇殿し
一同が神前で 「みろく神政成就」 を誓ったのは、
王仁三郎を君主とする 新国家建設を目的とした
「 皇道大本 」という秘密結社を組織したに外ならない
と、当局が強引にこじつけデッチ上げたものであった。

政府としては、今度こそ王仁三郎を徹底的に弾圧し、
大本をこの地上から抹殺しようとするつもりであった。
そのため、第二次弾圧は第一次とは比較にならない程
壮絶なものとなり、その破壊ぶりは異常でもあった。

昭和十年十二月八日、
早暁の四時、綾部と亀岡の大本本部は、
武装した四百三十余人の警察隊の包囲をうける。
近代史上に類例をみない 大規模な宗教弾圧 …
ついに、その幕があけられたのである。

亀岡の天恩郷へ向かった警官は

決死的覚悟をもってのぞむように … 」

と申し渡されていた。
警察隊は腕に白布を巻き、白たすきを斜めにかけ、
足音をたてぬよう、靴を草履に履きかえる。

大本には日本刀や拳銃があるという虚報を信じ、
訓練された青年団が 決死の反撃にでるだろう …
と、憶測していたからであり、警察隊は
救護班まで用意していたという周到ぶりだった。

神苑内にいた幹部達は、次々と検挙されて京都へ護送。
ほかに百人余りが亀岡署に拘置されたが、
もちろん全員が無抵抗であった。
一方、綾部に向かった警察隊も亀岡と同じように
幹部宅の天井裏から床下まで捜索し、つづいて
六日間に渡って大本関係物件を、ことごとく押収した。

聖師は、この朝を松江の島根別院で迎えていた。
午前四時、島根県下の警官総数七百名の半分にもなる
約二百八十名の武装警官が、別院を包囲し、
聖師王仁三郎ただ一人を拘束した。

この時、聖師はゆっくりと衣服をあらため、傍らの
二代教主すみ が火をつけて渡された 煙草をくゆらせた。


昭和なる十年師走八日朝
  醜(しこ)の黒犬わが館襲へり
  寝込みをば叩き起されしとやかに
 我は煙草をくゆらしにけり あわてるな
 騒ぐな天下の王仁さんと 犬を待たせて煙草くゆらす

 
と、のちに聖師は当時を回顧して詠んでいる。
時に聖師、六十四歳であった。

新聞マスコミは待ってましたと、妖教だ怪教だと書き立て

王仁三郎は死刑、もしくは無期懲役になるだろう 

と、はやくも憶測をばらまいたのであった。
しかしそれは当局が裏工作したもので、
マスコミは うまく利用されていたのである。
警察はさらに卑劣な方法を講じ、女性問題をデッチあげ
聖師の居室に卑猥な展示をほどこし、
マスコミを招いて写真を撮らせたりもした。

この度の弾圧は、十五年前の第一次とは、規模といい
深さといい、比較にならぬ凄まじさである。

幹部は根こそぎ拘束され、信者数千人が捜索を受けた。
本部の営みは すべて停止され、教団組織は解体された。

当局は、警察でも検事局でも予審でも 自白を強要し、
自白といっても、予審判事五人が力を合わせつつ
前もって作成しておいた調書の結論に、強制的に導き
ことに特高警察の取り調べは、まことに残虐であった。

五条署に移された聖師は、長髪を持って引きずり回され
殴る蹴るの暴行をうけ、さらに娘婿の出口日出麿は
竹刀で打たれ、悲鳴が聖師の独房にまで聞こえたという。

翌年三月に起訴されると、内務省は治安法に基づき
本部、昭和神聖会を含む大本関連八団体に
結社禁止命令を出し、またもや裁判を待たずに
大本全施設の 徹底的破壊を強行したのであった。
 
 
Oomoto-Kyo_写真通信1921-10月号-60[1]
 
 
一切の神殿が壊されたことはもとより、本部内は
金竜海は埋められ、大理石と鉄筋でかため造られ
要塞ともいうべき 月宮殿 などは、じつに三週間をかけ
ダイナマイト千五百本を使い、木っ端みじんにした。
 
 
od29[1]
 
 
また、信者の墓石からは 「宣伝使」 などの文字を削り、
手水鉢からは、十曜の神紋の部分だけ削りとられた。

開祖なおが、初期のころ神業をした日本海の孤島、
沓島まで出かけて祠(ほこら)を海にほうりこみ、
全国各地にあった聖師の歌碑も、全て文字を削られた。

それは弾圧者たちが、何か目に見えないものの恐怖と
その脅威におびえた結果としか考えられない、
異常なほど執拗きわまる破壊ぶりであった。

 

未決生活

 
聖師は監獄に入り、信者の中には拷問で殉教者も出た。
しかし、日本にとってもまた暗い時代の始まりだった。

大本は潰され、日本が潰れる  」

この不気味な予言を、聖師が呟くのを人々は聞いた。
日本は確実に、破局へと道をころがり始めることになる。

昭和十二年、日華事変が勃発し、
中国との戦争は泥沼へ入り込み
そこで太平洋戦略を立てたところへ、
米国は資源ルートの破壊工作をはじめる。

間もなく資源問題で退路を断たれた日本は、
海軍の暗号も何もかも解読済みのルーズベルト陰謀に
はめられ、空母もいない ほとんど無人となった
空虚の真珠湾艦隊へ 奇襲をかけることになる。
第二次世界大戦は 火ぶたをきったのであった。

昭和十年に始まった第二次大本弾圧事件は、
日本が戦争のさ中に進行し、七年にわたる裁判となった。

聖師は、京都刑務所の未決監に移送される。
この頃から、数分間の面会が許されるようになり、
葉書も隔日に一通は出せるようになる。
聖師は家族に、また信者の誰彼にも書き送った。
そして 先方からの便りも届く。


  愛とし子や 知るべの人の送る文
    我よみがへる心地するなり

                (聖師 詠)

そして、聖師は独房の中で開祖をおもう。


 わが膝に抱かれ天に昇りたる 教御祖を偲びては泣く
 風吹けば教祖を思ひ雨降れば 教え子思ふ星座の吾かな

                           (聖師 詠)

しかし聖師は、こうした中にも心は広く天地を翔け、
四季折々の山野に遊び、風光を楽しんだ。
そして頭の中で 楽焼茶盌 をひねり、
様々な色を塗って 天国の姿を描き出そうとした。
次から次へと独創的な美しい 茶盌 が生まれる。
こうして、想念の茶盌は無数に頭の中でつくられ、
後の 「耀盌(ようえん)顕現」 につながってゆくのであった。

二代教主・出口すみも、ただ一人の女性被告として
監獄での長い未決生活を強いられたが、その間
ただの一度も 人に暗い顔を見せたことがなかった。
たまに信者が面会にゆくと、

今までいろいろの修行をさしてもらったが、
  牢の修行は今度が初めて、けっこうやで

と、いかにもうれしげに話し、慰めにいった者が
反対に慰められて帰るのが 常であった。
ここに教主の、牢獄における有名な逸話がある …

膝に這い寄るボッカブリ(ゴキブリ)と仲良しになった。
ボッカブリの夫婦が、すみのもとへ毎日やってくるので、
いつも弁当を 少し残しておいてやった。
それを食べて膝の上を這いまわって帰るボッカブリ。
ところがある日、一匹だけが来ていかにも寂しげだった。
次の日も、また次の日も一匹だけがきた。
すみは、これを心配して看守にたずねた。

私のところへ毎日遊びに来るボッカブリが
 一匹見えませんが、何かお心当たりはありませんか

すると、

あ、それやったら二、三日前に廊下で一匹踏み殺されていた

と答えが返ってきた。

残った一匹は どうやら雄らしい。
すみは、その雄に話しかけてやった。

嫁さん亡くしたんか、
  かわいそうやのう。早う次のをもらいなよ

それから幾日かすると、二匹がやってきた。
後方にしたがう一匹は、恥ずかしそうにしている。

お、お前 嫁さんになってくれたんか。
         こっちへ来い、こっちへ来い
  」

するとだんだん近寄って雄と一緒に食べ物を食べ、
それからまた毎日 二匹が来て膝で遊んだ。
ところが、後に すみは控訴審のため大阪へ移された。
ある日、京都に残して来たボッカブリが思い出され、
こう呼びかけている …

 四(よそ)年を馴れなじんだ ぼっかぶり
    妻は まめなか 子らは増えたか

昭和の二十五年頃、同志社総長の湯浅八郎が、
米のシーベリー博士と一緒に すみを訪ねた。

そのボッカブリの話を
シーベリー女史は興味深く聴き、
湯浅は感動し切っていた。

昆虫学を専攻した湯浅には、特別の思いがあったらしい。
のちに、湯浅は

あの時こそ、ここに人ありと思いました  」

とその感動を語った。

窓の外の雀と話したり、
幼い頃の思い出を
童謡のような歌に綴ったり、

すみの未決生活が、そのまま 美しい詩であった。

出獄後 …
婦人看守が すみを慕って、度々 天恩郷を訪ねた。

 

聖師王仁三郎 昇天

 
 
昭和十五年二月二十九日、
一審判決では全員有罪となったが、大本側は即時控訴。

昭和十七年七月三十一日の大阪控訴院二審判決では、
検察側のデッチ上げ論法が否定され、
治安維持法違反については 無罪となった。
しかし不敬罪は再び有罪となり、これを双方が上告。

昭和十七年八月七日、聖師らの保釈が決定し
六年と八ヶ月の獄中生活に終わりを告げた。
そして終戦をむかえ、昭和二十年九月八日、
大審院法廷で上告棄却の判決がだされる。

同年十月十七日、大赦令公布と敗戦にともない、
完全無罪となったのであった。

さて、筆先には

大本にあったことは必ず日本と世界に実現する
  大本は 模型(かた) であるから、
 箸(はし)がころんだ事までつけとめておいて下されよ

とあるが、第二次大本事件の日が日米開戦の日となった。
その型は、あまりにもそっくり出たのである。
両聖地破壊の姿が、昭和二十年には日本全土に現れた。

聖師らの未決勾留期間が六年八ヶ月、
米軍による日本占領もまた、六年八ヶ月。
大本事件解決は 二十年の九月八日(大審院判決)
太平洋戦争の解決は、サンフランシスコ条約調印の
二十六年九月八日、と、それは暗号というには
あまりにも鮮やかに一致する符号であった

満六年八ヶ月ぶりに出所した聖師一行は、
大阪駅から汽車に乗って、夕刻に亀岡に着く。

丹波米となる稲穂は 青々と伸びそろい、
空には白く 夏雲が浮かんでいた。
丹波の山々も緑濃い盛装で、聖師の帰りを迎えた。
聖師は 天恩郷の廃墟を一顧だにせず、車で
中矢田農園の 出口直日の宅におちついた。
 

 八年ぶりに 家にかへれば 庭木々は
  見まがふばかり のび栄え居り
 わが居間にて 音頭をとれば
  孫たちは 集ひ来りつ 舞ひ狂ふなり

 
聖師七十一歳、すみ夫人五十九歳の夏真っ盛りであった。

聖師は、事件によって他界した多くの信徒を
自宅となった農園の 神床に祀った。
 

 道のために天に昇りしわが友の
 御名をしるして永遠にたたへむ
 
                 (聖師 詠)

 
 
事件中、起訴された六十一名のうち十六名が死去した。

聖師は、中矢田農園で孫たちに囲まれて水浴びしたり、
すみ夫人と一緒に 愛犬シロを連れて散歩を楽しんだ。
それは家庭的生活の中で、悠々自適の日々であり、
聖師夫婦にとっては、かつてない楽しい時であった。

seishi_sumiko[1]

また各地の信者達は、交通事情の悪い中を
大戦下の統制で、手に入り難くなった物資を携えて
つぎつぎと農園をおとずれ、聖師のもとを訪問した。

そして傍らの信徒達がハラハラする中で、聖師は
時局や戦争の見通しについて、ハッキリとものを言った。
 

上陸とか占領とか
 景気のよいことばかり言っているが逆になっている
 」

 
聖師保釈の二ヶ月前、日本海軍連合艦隊は全力をあげて
アメリカ太平洋艦隊の根拠地ミッドウェーを攻撃したが
主力空母四隻を失う、大敗をきっしていた。ところが
この敗北が、日本の勝利のように報道されていたのだ。
 

 「 日本は負ける  」
 「 千島列島はなくなる  」
 「 台湾もうしなう  」

 
と、訪問の信者たちに伝えていたのであった。
そして昭和二十年夏、日本は敗戦をもって戦い終えた。
 

od3[1] 
 
翌昭和二十一年には、両聖地の再建が始まった。
信者達は胸おどらせて馳せ参じた。

破壊で散らばった巨石や瓦は、膨大な量にのぼり、
その片付けは、多くの日数を要すると思われたが
全国から食糧持参で集まった、信者達のひたむきさに
作業は急ピッチに進んだのであった。

昭和二十三年の正月。
二代教主すみは、
 

お月さまが聖師さまのお部屋からあがられ、
 月の輪台(天恩郷内の聖場)にすっとお入りになった
  」

 
という初夢を見た。
すみはその時から、聖師昇天を覚悟する。

そして一月十八日朝、聖師は昏睡の状態となった。
翌十九日、あたり一面薄雪にいろどられ、
きびしい寒気は、大地を凍らせていた。

午前七時五十五分、出口王仁三郎聖師は水のひく如く、
静かに息をひきとった。七十六歳六ヶ月の生涯であった。

すみ夫人は枕頭に両手をついて挨拶した。
 

先生、まことに永い間ご苦労様でした。
  お礼を申し上げます。これから私はあとを継いで、
 立派にやらしていただきます。どうぞご安心下さいませ
… 」

 
この日の前夜、
獄中でうけた拷問の痛手を癒すため、兵庫県の竹田で
静養していた出口日出麿は、庭におり立ち月を仰ぎながら
いつまでも、いつまでも、じっと立ちつくしていた。

聖師昇天の報に、全国の信者は悲しみの衝撃をうけた。
十九日から二十八日までの十日間、瑞祥館で毎夜
お通夜がおこなわれたが、霊柩の蓋は覆うことなく、
信者は自由にお別れすることが出来たのであった。

十日目の二十八日、霊柩の綾部移動を前に、
天恩郷での告別式が行われた。

斎場となった瑞祥館の内外は、参列者でうずまった。
この雪の舞うなかを、参列の人は庭外にあふれていた。
霊柩は、信徒の大工数人によって造った特別車に載せ、
それを曳いて、綾部まで運ばれることとなった。

これから丹波高原を寒中に徒歩にて、
綾部までの六十キロの道を踏破しようというのである。
霊柩車を曳くのは主に青年であったが、
老人も婦人も、われも われもとお供を申し込んだ。
道中が容易でないと説いても、頑として聞き入れず 

 「 途中で死んでも悔いはない  」
 
という人たちばかりであった。

上天の月が雲間から白い光をなげる三十日の深夜、
霊柩車は  しずかに 天恩郷 を出発した。

何人かが 宣伝歌を合唱し始めると、
やがて全体の大合唱となった。

  
神幽現の大聖師
  太白星の東天に きらめく如く現れぬ
  一切万事救世の 誠の智恵を胎蔵し  ・・・
 
  
Onisaburo_Deguchi_2[1] 
 
                        完