霊力で噂になった喜三郎のもとへ、
あちこちの宗教からの誘いの声が、かけられて来る。
その中に、静岡県安部群
富士見村の月見里神社に属する
稲荷講社総本部の役員、三矢喜右衛門がいた。
喜三郎は、三矢の話を聞き講社の主旨には賛成だが
「 稲荷 」 という名に ちょっとひっかかりを感じた。
「 稲荷 」 というと、一般には狐や狸の類とされ、当時
丹波では、軽蔑をうける傾向にあったためである。
しかしながら、講社総長の「 長沢雄楯 」という人物が
過去、現在、未来を透察する霊学の大家と聞いて、
じっとはしておれず、総本部を訪ねてみることにした。
明治三十一年四月。
喜三郎は穴太を発って、三矢の案内で駿河に旅立つ。
京都までは徒歩で行き、生まれて初めての汽車で
無事に長沢雄楯が宅に着いたのであった。
長沢は、本田親徳(国学、霊学、言霊学者)の弟子で、
幽斎や鎮魂帰神を修行し、神道、神霊学、その道
当代随一の 大家 として、聞こえていた。
宅では、喜三郎に霊学の事や、本田の来歴など詳しく
語ってくれたのであった。そして、長沢の母豊子は
「 本田さまの仰有るには、十年後に丹波から
一人の青年が訪ねてくるが、その者が来ると、
丹波からこの道が開ける …とのことでした。
お前さまのことに違いないと思いますから、
お預かりしている鎮魂の玉や天然笛をお渡ししましょう 」
と言って、二つの神器と神伝秘書の巻物を渡された。
そして長沢が、喜三郎を審神してみようという事になり
喜三郎が神主の座について、幽斎が行われた。
その結果、まごう方なき高級神霊の神がかりが認められ
「 鎮魂帰神 の 二科高等得業 を証す 」
という、免状まで渡された。
三日後、喜三郎は希望に燃えて故郷丹波へと戻った。
喜三郎の気性は元来、一度気持ちが定まると
千仭の谷の水を一気に切って落としたような勢いで、
勇猛果敢に進み行くものであった。
丹波に戻った喜三郎は、
亀山城に雄叫びして誓いをたて、産土の社には
「 われを 世に立たせたまえ 」
と祈ったのであった。
そんなある日、小幡神社に参拝の折り、
小松林命(素盞鳴尊の分霊)から神示を受けた。
「 一日も早く、西北の方をさして行け。
神界のしくみがさしてある。
そなたを待つ者がある。
すみやかにここを発ち園部の方へ行け 」
明治三十一年旧六月。
喜三郎はこの神示にしたがい、穴太をあとにした。
山陰道を二里ほど歩き、八木の虎天堰というところ、
その傍らにある茶店に入り、一休みすることにした。
すると、そこの女主人が喜三郎に声をかけてきた …
「 あなたは、何をなさる人ですか 」
「 わしは審神というて、神さんを見分けるもんじゃ。
もっとも、あっちこっちで調べさしてもろうたが
どいつも 狸や狐 ばっかりなんは たしかや 」
「 そうどすか、どっちから来はりましたん 」
「 東 … 穴太じゃ 」
女主人は、ひじょうに喜んで
「 折り入って頼みがありますのや。
実は私の母はいま綾部におるんですが、
艮の金神がおうつりなさって、神さんの仰るには
この神の身上をわけてくれる者は、東から出てくると。
わてらは、ここに茶店を開いてその方を待っとったんです。
それが あなたに思えてならんので、どんな神さんやら、
一っぺん行って 調べてやってくれまへんか ・・・ 」
この女主人とは、大本開祖なおの三女、ひさであった。