明治七年一月、上田家には
喜三郎に次ぐ由松が誕生した。次男が生まれたため、
母よねは喜三郎を祖母の宇能にゆだねることにした。
先に昇天した祖父も変わり者であったが、
祖母もある意味でずいぶん変わった人だった。
といっても祖父のように
大バクチをうって遊びまわったのではない。
宇能は、当時の片田舎には珍しい教養の持ち主で、
和歌の道に通じていたばかりでなく、
言霊学にふかい造詣をもち、信心深い人でもあった。
言霊とは、我が国の上古において、まだ文字がなく
言葉だけで万事を伝えたため、言葉をひじょうに尊重して
霊があるとされたもので、言葉には霊威があり
力が働いて事象がもたされると信じる
この言霊学の研究者で、「日本言霊学」という
書物をあらわしたのが、中村考道であったが、
丹波亀岡近郊に住んでいた。
この学者の家に生まれたのが、
喜三郎の祖母、宇能である。
喜三郎が幼、少、青年期を通じて このような教養と
信心のある祖母の影響を受けたことはいうまでもない。
とくに、十歳になる頃には
宇能が授ける言霊学につよい興味をしめし、
よく山や野へいっては
「 アー、オー、ウー、エー、イー 」
と、一人叫んでいたという。
喜三郎が六歳になった秋のこと。
万病除けのために施してもらった漆灸に、
かえってかぶれてしまった。
これが痒くてたまらず、身体中をかきまくったため、
あちこち腫れたり破れたり、瘡(かさぶた)だらけになって
とうとう動けなくなってしまった。
しかし人生というものは何が災いし、
また幸いするかわからない。喜三郎は、
この漆騒動のおかげで小学校の入学が遅れるのだが、
これが理由となって、祖母に読み書きや
百人一首の手ほどきを受けたのであった。
喜三郎の小学校入学は三年遅れ、
満九歳の春にようやく入学式を迎えた。
喜三郎は小学校に入学するやいなや、
持ち前の天才ぶりでめきめき進級し、
四年後には先生すら追い抜くまでになっていた。
授業の中で担任の先生が、
大岡忠相(ただすけ)の名前を「 ただあい 」と読んだ。
これを喜三郎は、すかさず
「 それは、ただすけ、と読むんじゃ先生 」
と訴えると、先生は
「 何を言うか、ただあいが正しい 」
と、大声で激怒した。
そこへ駆けつけた校長先生は、
事のしだいを二人に問いただした。
校長先生は
「 ここは生徒が読んだ、
ただすけ が正しい
君も少しは勉強しなされや 」
と、担任を叱ったのであった。
しかし、他の生徒の前で面目大潰れとなった担任は、
喜三郎をことあるごとに目のかたきにした。
喜三郎が少しの読み違いでもしようものなら、
すぐさまなぐり、時には太い麻縄で後手に縛りあげたり
大きなそろばんの上に 一時間あまりも座らせた。
そればかりか乞食が通ると指さして
「 あれ、喜三郎さまのお父さまが通る 」
などとあざけたりもした。
それを、他の生徒達もそれを面白がるため、
喜三郎は、とうとうたまりかねて反撃に出た。
竹の先に糞をつけて、草陰からそのまま
先生の腰に突き当てて逃げ帰ったのである。
この一件で喜三郎は退学になり、
もともと原因をつくった担任も退職処分となった。
ところが、かねてより喜三郎の才能を
見こんでいた校長は、なんと辞めた担任の代役に
喜三郎を助教員として採用したのである。
十二歳の少年教師喜三郎は、
黒板に字を書くにも踏み台が必要であった。
教え方はざっくばらんで型やぶり、
生徒が難しい質問をすると、
「 そないなこと、わしは知らん。
調べてきてあした教えてあげよう 」
と、あっけらかんという。
これが生徒達に、とても親しみを与え評判であった。
しかし一年余りほど教鞭をとったのち、
同じ学校の坊主あがりの教師と神仏論争で激突し、
あっさりと教職を辞めたのであった。