白熱化する宣教活動

 
開祖昇天のあとを継ぐ教主は、すみ と神定されており、
王仁三郎は教主輔となり、この大正七年からは、
大本の全国的宣教が 一段とはげしく展開される。

各種の大本機関誌上では、幹部の友清天行が

この世界が 微塵に打ち砕かれる時期が
      今から一千日ばかりの間におこる
 」

と大胆な予測を発表する。
これは信者はもとより、社会一般に多大の影響を与え、
また多くの人の入信の動機ともなった。
大本全体が、そうした風潮になっていったが、
王仁三郎はこれを厳しく否定し、苦々しく思いながらも
渡るべき道程として 見ていたようなところがある。

その風潮をさらに煽ったたのが、浅野和三郎であった。
浅野は、王仁三郎に次ぐ教団の実力者で、
彼は 大本の指導者として、また筆頭幹部として
飛ぶ鳥を落とすほどの勢いを持っていたし、また
一高、東大というコースをたどり、海軍機関学校の教官、
英文学者としても名をなしていたインテリであった。
そんな社会的な前歴や地位からも、
大きな信任を各方面から得ていたのである。

しかし浅野らは、筆先を自己流に浅く解釈し、そのために
「 日本 対 世界 」 の戦争や 天変地異を強調し、
その論議は きわめてはげしく、
したがって宣伝の仕方も じつに熱烈であった。
大正十年立替え説 」 を唱え、

時は迫れり … 守護神も人民も すみやかに改心せよ

と大声で叫び歩いた。

時節の切迫をうったえるため、馬、自動車、太鼓、
あらゆる物をかりだして、はげしい口調で街頭演説し
また、旅館、劇場、集会場で講演を行った。

この頃といえば 第一次世界大戦は終わったものの
世界および日本が大きく動揺している時で、
こうした危機意識を煽る言説は、とくに
軍人や知識人の関心を引き、秋山真之(中将)をはじめ
海軍関係者やインテリ層が あいついで綾部を訪れ、
教説を研究し、鎮魂帰神を実修した。

当時、開祖の生き方を鏡とした役員、奉仕者達は
謹厳、清楚を旨とし、早朝に起きて清掃し、
無駄口をつつしんで 献労 や 業務 に励み、
粗衣粗食に甘んじ、身魂みがき に努め、
そのため 神苑内では 一種の風格ができていた。

ところが、そういう風格が ひと度 世間へ宣教に出ると
人柄が一変したかと思われるほどに、
激しい口調で叫び回ったのだから
不思議といえば 不思議なものである。

また、次々と綾部へ移住して来る人々の中に、
谷口正治(雅春)がいた。後の 生長の家 主宰者である。

彼は大正七年入信で、翌年春に綾部へ移住している。
鎮魂帰神 に 深い関心をもって入信し、
さらに、立替え立直しの主張にひかれる。
当時 谷口は、「 大本の聖フランシス 」 と自称して、
薄衣に荒縄 という、きわめて特異な生活を送りながら
浅野和三郎と並んで、めざましい文筆活動を展開する。

大正八年十一月には、
王仁三郎は 明智光秀が旧城亀岡城跡を買い取る。
この時 かつての天守閣は既に無く、石垣まで売り払われ
狐狸 が住むほどに 雑木雑草が生い繁っていたが、
すぐに一角を整備して道場を建て、大本本部とした。
ここは、いずれ「 天恩郷  」と名づく大神苑となる。

大正九年に入ると、宣教活動はさらに白熱化を帯びた。
一月二十五日には東京駿河台の明治大学大講堂で、
浅野らによる大講演会が開かれ、昼夜に大盛況となる。
さらには、慶応大学講堂や学士会館、有楽座、
大阪では中之島公会堂でも、講演会が催された。

こうして当時、貴族の中にも入信する人があり、
それらの人々が宮家の中までも大本神論を持ち込み
大本の話題は、上流階級へも しだいに浸透した。

大正の初めには 信者数千人にみたなかった大本は、
このようにして爆発的な成長を遂げ、世間を見はらせた。
それにつれて警察当局は大本に対する警戒を強め
いく度か 王仁三郎や幹部を呼び出して警告を発し、
じわじわと圧迫を加えるようになっていった。

また新聞雑誌には、大本を批判、攻撃する記事が増え、
その中には 興味本位にデッチあげたものも多く、
当局を いっそうに刺激することになった。

この頃、王仁三郎は一貫して鎮魂帰神法の禁止を告示し
また宣教の上で予言はつつしむようにと、注意も与えた。

しかし、その勢いはもう止まることを知らぬ有様だった。
そして多くの信者は、大正十年で世は終末になる、
天変地異で、世界は壊滅するのだと信じたのであった。

ただ王仁三郎はこれについて、
明らかな神示解釈の誤りであることを始めから知りつつ
暗に、黙認をつづけるようなところがあった。これは、
あえて、そうさせる必要があったからなのである。