政五郎の死後も、幼い子らを抱えながら窮乏はつづいた。
それでもなおは、心の余裕を決して失わずに
貧乏くずれといったものは一切見せず、
木綿の粗末な着物でも 常に折り目正しく清潔であった。
髪もいつもきちんと結われ、
そんななおを町の内儀(おかみ)さん達は
「 なおさんが糊つけを着ているのは、
他の人が絹物を着ているより立派に見える 」
と、話しあっていたという。
生活ぶりもひそやかで信仰的、
道端で落穂を見つけると、なおは必ず拾ってかえった。
「 天地のおめぐみで実ったものを
踏みつけてしまってはもったいない、
お水のご恩はお返しすることができない、
せめて大晦日には何なりと
夜なべをしてお水のご恩報じをしたい 」
と、縫い物の手をやすめないなおであった。
このような清純な信仰心は、生まれもったものであったが、
それが ますます磨かれていった。
しかし、なおの身辺にはさらなる苦難が待っていた。
明治二十三年八月のこと、
三女のひさが娘ふじを出産するが、ふじの指に
障害があったことを思い悩み、錯乱状態になっていまう。
幸いにも 二女ことが熱心な金光教信者だったため、
紹介された布教師の祈擣により、ひさは正常に戻った。
このことがあり、元々信心深かったなおは
金光教に傾倒していくようになった。
ところが、それから一年余りが過ぎた冬のこと、こんどは
大槻鹿造と一緒になっていた長女よねが発狂してしまう。
のちに開祖となったなおは、それまでの半生を
「 この世にまずない苦労を経験した 」
と、語っている。
明治二十五年、旧正月が間近いこの冬、
なおは毎夜水行をする中に 神夢と帰神 が訪れた。
大本では、この時をもって開教としている。