大本開祖となる 『 なお 』 は
幕末の天保七年、京都市福知山に生まれた。
この頃の福知山藩は 財政難にあり
約十万両を 大阪の商人から借り入れたが
そのしわよせは民衆を苦しめ、さらにこの年は
大雨と低温のため大凶作となり米、麦はおろか
すべての食料は獲られず、人々は山野の草木を口にし、
とうとう畳表までも煮て食べたともいう。
この飢饉の中、なおを身ごもった母の「そよ」は
生まれようとする なおを間引(堕胎)こうとしたが、
そよの姑たけ は強く反対した。
かくて、なおは餓えと寒さにおののく
新年間近の 旧十二月十六日に誕生した。
幼少より 貧苦の苦労の中で育ち、早くに父を亡くして
母も病身だったため、
なおは十歳と僅かにして奉公に出る。
奉公先では
骨身をおしまず働き、夜には糸紡ぎの内職にも励んだ。
さらに病身の母を気づかい、おいしい物が膳につくと
自分は食べずに一走りして母に届け、
また半期に一度主人からの 「 粗物 」 としてもらう
単衣や浴衣地も、そのまま母のもとへ届けた。
母そよは、それを感謝し金にかえて暮らしの足しにした。
なおは母の喜ぶ姿を唯一の楽しみとし、
そんななおを、そよは誇りに思い
「 これはな、なおのくれたものじゃ、これもそうじゃ 」
と、会う人ごとに娘の孝行を喜んで告げたという。
やがて、なおの孝行娘としての評判が高くなり、
十二歳のころには、福知山藩主から
三孝女の一人として表彰された。
当然、近所の人の評判がよく、
人はみな自分たちの子供に
「 なおさんと遊べ 」
と言っていたという。
また、なおは子供のころより信心深く、
すでに六、七歳のころから、のちに大本でいうところの
「 みろくの世 」 の到来を口にしたという。
奉公先から三日ぐらい姿を隠し
夕方にぼんやり帰ってきたので事情をきくと、
山のなかで 修行してきた と答えたという。
成人しても自分の住まいには 神床を設け、
天照皇大神、八幡大菩薩、春日大明神
と併記した軸をかかげ
「 天照皇大神さま、日天さま、月天さま、
天道さま、うれし権現さま、七社大明神さま、
日本国中の神々さま、御眷族さま 」
と唱え合掌した。
さらに仏や祖霊もまつり、それらに茶湯を献じ、
その残りは 「 餓鬼に進ぜましょう 」 といいながら
溝にそそぎ 無縁仏に供えたという。
安らかにあの世へゆけない零落したみたまたちのことも、
なおはすでに意識していたのであった。
前途のように
なおは貧苦の生活に青春をすりへらしたため、
寺子屋や夜学に通うことはできなかった。
だから無学文盲の女性ではある。
けれども無知無教養の人ではなかった。
京都丹波地方の中では
文化の中心地である福知山に育ち、
当時の藩が教化した家族道徳や儒教倫理、
心学などの影響や母の慎ましい生き方
その考え方を受け継ぎ、
人生姿勢を いつの間にか会得していったのである。
後年、大本開祖として多くの人々に接するのだが、
なおの挙措ふるまいは、ひかえめで品のよいものであった。
とくに娘時代は、朝暉神社奉納の能拝観をとても好み、
能楽を通して文学や歴史、
美術や音楽などの世界を経験し、
ストーリーやドラマから
人の世や もののあはれ を感じとっていたのである。