関東大震災の前年、大正十一年の九月、
大本綾部に バハイ教の宣伝使フィンチが訪れている。
バハイ教は、1844年にアブドルバハーがイランで創立。
イスラム教系の新宗教であり、人類同胞主義を唱え
万教同根と各宗教間の協力と提携をさけび、
米国に本拠を構えて 北米や欧州に教線をひろげ
国際的な布教活動を行っていたのであった。
バハイ教では、その国際的な活動の一環として
国際語・エスペラントを導入していたが、
王仁三郎も早くから このエスペラント語に着目しており
これを契機として、翌大正十二年には大本にも採用する。
エスペラントとは、ポーランドの眼科医ザメンホフ博士が
人類愛の精神に根ざして、1887年に成した国際語である。
彼は、民族の対立の原因として、言葉の違いを痛感し、
民族間の憎しみや戦争をなくすために学びやすい
「 共通語 」が必要であることに気づいたのである。
当時エスペラントは、発表されてまだ三十六年だったが、
世界各地にこの運動は拡がり、日本でも
黒板勝美博士らの先覚によって、
組織的な普及活動が はじまっていたのであった。
「 霊界物語 」の刊行によって 大本の信仰が渓川から
洋々たる大河に導かれた訳だが、さらにその大河の上に
爽やかな新風を吹き渡らせたのが、エスペラントである。
大本事件による抑圧のため、鬱屈しがちな教団に、
海外宣教の大構想へと、奮い起こさせたのであった。
このエスペラント語を駆使し、大本は国際的に拡がり
世界各国の様々な宗教団体と、繋がりを持つようになる。
そんな中に、中国で起こった新宗教である
道院・紅卍字会(道院の外郭活動団体)があった。
発祥は大正五年頃、
中国三東省浜県の県知事・呉福森と
駐防営長・劉紹基の二人が、県の役所に神檀を設け、
フーチという神示伝達を自動書記する帰神法で
神託を乞うたことに始まったとされる。
信仰心の深い二人は、何事をなすにもこれを常とした。
ある日、尚真人 という仙神が神檀に憑り、
「 老祖久しからずして世にくだり劫を救い給う
まことに数万年遭い難きの機縁なり、
汝等 檀を設けてこれを求めよ 」
と、根源的な神からの言葉が取り次がれた。
道院では、この老祖を 「至聖先天老祖」 と呼び、
その下に、世界五大宗教の教祖である、老子、釈迦、
孔子、キリスト、マホメットを祀り、五教同根を唱えた。
そして、
万有和楽の 世界天国建設の天の時が 近づいた
と主張したのであるが、
これは大本の主張するところと、まったく同じであった。
王仁三郎はこれについて、老祖とは国常立尊の別名
同神異名であると、説明している。
道院では、神示のことを 「檀訓」 と呼んでいたが
「 日本の首都に大地震が起こる 」
という檀訓がくだり、さらには
「 日本に行けば道院と合同すべき教会がある 」
と示されたのであった。
当時、中国南京の日本領事であった 林出賢二郎は
大本信者であったが、道院から白米二千石と銀二万元を
まだ起こってもいない、震災の救援として託され、
奇妙に思ったが ともかく何かあるのだろうと、これを
日航汽船に託し 東京へ向かわせたのだった。
そして関東大地震が発生する九月一日には、すでに
横浜港に、道院からの義捐米等の救援が接岸していた。
この不思議にうたれた林出は、大本と道院の間に立ち、
日本に震災慰問へと出発する道院一行団に、
王仁三郎と会う事をすすめ、その手はずを整えた。
一行は十一月三日に綾部を訪れ、王仁三郎と会見した。
こうして両団体の交流は、緊密化して行き、
王仁三郎は 至聖先天老祖 の地上代行者として
その指導力は、東亜圏にまで及ぶようになっていった。