第二次大本事件

 
かくして発足した昭和神聖会。

その勢力は創立から一年で、国内に地方本部二十五、
支部を四百十四、会員と賛同者合わせて八百万人という
空前の大規模な組織へと発展していた。

ここまでに勢力を拡大した大本と昭和神師会を、
国家当局が 大きな脅威として見るようになるのは
当然の流れであり、政府は再び教団弾圧に乗り出す。

当局はまず、全国に特別情報網をめぐらせて
検挙に必要な 証拠をやっきに集めていった。
昭和十年三月下旬には、滋賀県大津市と京都市内に
偵察隊のアジトをつくり、証拠資料の整理を行う。
第一次弾圧のときは、不敬罪が適用されたが、
この度は、治安維持法の立証に 力点が置かれた。

治安維持法は大正十四年に立法された法律で、

 国体を変革することを目的として
 結社を組織すたる者は 死刑または無期懲役、
 情報を知りて結社に加入したる者は 二年以上の懲役に科す

というものであるが、大本をこれで摘発するには
当局側も、かなりの困難な作業となった。
結局 目をつけたのは、昭和三年に行われた
「 みろく大祭 」という、神奉行事に過ぎなかった。

王仁三郎が、幹部を従えて至聖殿に昇殿し
一同が神前で 「みろく神政成就」 を誓ったのは、
王仁三郎を君主とする 新国家建設を目的とした
「 皇道大本 」という秘密結社を組織したに外ならない
と、当局が強引にこじつけデッチ上げたものであった。

政府としては、今度こそ王仁三郎を徹底的に弾圧し、
大本をこの地上から抹殺しようとするつもりであった。
そのため、第二次弾圧は第一次とは比較にならない程
壮絶なものとなり、その破壊ぶりは異常でもあった。

昭和十年十二月八日、
早暁の四時、綾部と亀岡の大本本部は、
武装した四百三十余人の警察隊の包囲をうける。
近代史上に類例をみない 大規模な宗教弾圧 …
ついに、その幕があけられたのである。

亀岡の天恩郷へ向かった警官は

決死的覚悟をもってのぞむように … 」

と申し渡されていた。
警察隊は腕に白布を巻き、白たすきを斜めにかけ、
足音をたてぬよう、靴を草履に履きかえる。

大本には日本刀や拳銃があるという虚報を信じ、
訓練された青年団が 決死の反撃にでるだろう …
と、憶測していたからであり、警察隊は
救護班まで用意していたという周到ぶりだった。

神苑内にいた幹部達は、次々と検挙されて京都へ護送。
ほかに百人余りが亀岡署に拘置されたが、
もちろん全員が無抵抗であった。
一方、綾部に向かった警察隊も亀岡と同じように
幹部宅の天井裏から床下まで捜索し、つづいて
六日間に渡って大本関係物件を、ことごとく押収した。

聖師は、この朝を松江の島根別院で迎えていた。
午前四時、島根県下の警官総数七百名の半分にもなる
約二百八十名の武装警官が、別院を包囲し、
聖師王仁三郎ただ一人を拘束した。

この時、聖師はゆっくりと衣服をあらため、傍らの
二代教主すみ が火をつけて渡された 煙草をくゆらせた。


昭和なる十年師走八日朝
  醜(しこ)の黒犬わが館襲へり
  寝込みをば叩き起されしとやかに
 我は煙草をくゆらしにけり あわてるな
 騒ぐな天下の王仁さんと 犬を待たせて煙草くゆらす

 
と、のちに聖師は当時を回顧して詠んでいる。
時に聖師、六十四歳であった。

新聞マスコミは待ってましたと、妖教だ怪教だと書き立て

王仁三郎は死刑、もしくは無期懲役になるだろう 

と、はやくも憶測をばらまいたのであった。
しかしそれは当局が裏工作したもので、
マスコミは うまく利用されていたのである。
警察はさらに卑劣な方法を講じ、女性問題をデッチあげ
聖師の居室に卑猥な展示をほどこし、
マスコミを招いて写真を撮らせたりもした。

この度の弾圧は、十五年前の第一次とは、規模といい
深さといい、比較にならぬ凄まじさである。

幹部は根こそぎ拘束され、信者数千人が捜索を受けた。
本部の営みは すべて停止され、教団組織は解体された。

当局は、警察でも検事局でも予審でも 自白を強要し、
自白といっても、予審判事五人が力を合わせつつ
前もって作成しておいた調書の結論に、強制的に導き
ことに特高警察の取り調べは、まことに残虐であった。

五条署に移された聖師は、長髪を持って引きずり回され
殴る蹴るの暴行をうけ、さらに娘婿の出口日出麿は
竹刀で打たれ、悲鳴が聖師の独房にまで聞こえたという。

翌年三月に起訴されると、内務省は治安法に基づき
本部、昭和神聖会を含む大本関連八団体に
結社禁止命令を出し、またもや裁判を待たずに
大本全施設の 徹底的破壊を強行したのであった。
 
 
Oomoto-Kyo_写真通信1921-10月号-60[1]
 
 
一切の神殿が壊されたことはもとより、本部内は
金竜海は埋められ、大理石と鉄筋でかため造られ
要塞ともいうべき 月宮殿 などは、じつに三週間をかけ
ダイナマイト千五百本を使い、木っ端みじんにした。
 
 
od29[1]
 
 
また、信者の墓石からは 「宣伝使」 などの文字を削り、
手水鉢からは、十曜の神紋の部分だけ削りとられた。

開祖なおが、初期のころ神業をした日本海の孤島、
沓島まで出かけて祠(ほこら)を海にほうりこみ、
全国各地にあった聖師の歌碑も、全て文字を削られた。

それは弾圧者たちが、何か目に見えないものの恐怖と
その脅威におびえた結果としか考えられない、
異常なほど執拗きわまる破壊ぶりであった。