聖師王仁三郎 昇天

 
 
昭和十五年二月二十九日、
一審判決では全員有罪となったが、大本側は即時控訴。

昭和十七年七月三十一日の大阪控訴院二審判決では、
検察側のデッチ上げ論法が否定され、
治安維持法違反については 無罪となった。
しかし不敬罪は再び有罪となり、これを双方が上告。

昭和十七年八月七日、聖師らの保釈が決定し
六年と八ヶ月の獄中生活に終わりを告げた。
そして終戦をむかえ、昭和二十年九月八日、
大審院法廷で上告棄却の判決がだされる。

同年十月十七日、大赦令公布と敗戦にともない、
完全無罪となったのであった。

さて、筆先には

大本にあったことは必ず日本と世界に実現する
  大本は 模型(かた) であるから、
 箸(はし)がころんだ事までつけとめておいて下されよ

とあるが、第二次大本事件の日が日米開戦の日となった。
その型は、あまりにもそっくり出たのである。
両聖地破壊の姿が、昭和二十年には日本全土に現れた。

聖師らの未決勾留期間が六年八ヶ月、
米軍による日本占領もまた、六年八ヶ月。
大本事件解決は 二十年の九月八日(大審院判決)
太平洋戦争の解決は、サンフランシスコ条約調印の
二十六年九月八日、と、それは暗号というには
あまりにも鮮やかに一致する符号であった

満六年八ヶ月ぶりに出所した聖師一行は、
大阪駅から汽車に乗って、夕刻に亀岡に着く。

丹波米となる稲穂は 青々と伸びそろい、
空には白く 夏雲が浮かんでいた。
丹波の山々も緑濃い盛装で、聖師の帰りを迎えた。
聖師は 天恩郷の廃墟を一顧だにせず、車で
中矢田農園の 出口直日の宅におちついた。
 

 八年ぶりに 家にかへれば 庭木々は
  見まがふばかり のび栄え居り
 わが居間にて 音頭をとれば
  孫たちは 集ひ来りつ 舞ひ狂ふなり

 
聖師七十一歳、すみ夫人五十九歳の夏真っ盛りであった。

聖師は、事件によって他界した多くの信徒を
自宅となった農園の 神床に祀った。
 

 道のために天に昇りしわが友の
 御名をしるして永遠にたたへむ
 
                 (聖師 詠)

 
 
事件中、起訴された六十一名のうち十六名が死去した。

聖師は、中矢田農園で孫たちに囲まれて水浴びしたり、
すみ夫人と一緒に 愛犬シロを連れて散歩を楽しんだ。
それは家庭的生活の中で、悠々自適の日々であり、
聖師夫婦にとっては、かつてない楽しい時であった。

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また各地の信者達は、交通事情の悪い中を
大戦下の統制で、手に入り難くなった物資を携えて
つぎつぎと農園をおとずれ、聖師のもとを訪問した。

そして傍らの信徒達がハラハラする中で、聖師は
時局や戦争の見通しについて、ハッキリとものを言った。
 

上陸とか占領とか
 景気のよいことばかり言っているが逆になっている
 」

 
聖師保釈の二ヶ月前、日本海軍連合艦隊は全力をあげて
アメリカ太平洋艦隊の根拠地ミッドウェーを攻撃したが
主力空母四隻を失う、大敗をきっしていた。ところが
この敗北が、日本の勝利のように報道されていたのだ。
 

 「 日本は負ける  」
 「 千島列島はなくなる  」
 「 台湾もうしなう  」

 
と、訪問の信者たちに伝えていたのであった。
そして昭和二十年夏、日本は敗戦をもって戦い終えた。
 

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翌昭和二十一年には、両聖地の再建が始まった。
信者達は胸おどらせて馳せ参じた。

破壊で散らばった巨石や瓦は、膨大な量にのぼり、
その片付けは、多くの日数を要すると思われたが
全国から食糧持参で集まった、信者達のひたむきさに
作業は急ピッチに進んだのであった。

昭和二十三年の正月。
二代教主すみは、
 

お月さまが聖師さまのお部屋からあがられ、
 月の輪台(天恩郷内の聖場)にすっとお入りになった
  」

 
という初夢を見た。
すみはその時から、聖師昇天を覚悟する。

そして一月十八日朝、聖師は昏睡の状態となった。
翌十九日、あたり一面薄雪にいろどられ、
きびしい寒気は、大地を凍らせていた。

午前七時五十五分、出口王仁三郎聖師は水のひく如く、
静かに息をひきとった。七十六歳六ヶ月の生涯であった。

すみ夫人は枕頭に両手をついて挨拶した。
 

先生、まことに永い間ご苦労様でした。
  お礼を申し上げます。これから私はあとを継いで、
 立派にやらしていただきます。どうぞご安心下さいませ
… 」

 
この日の前夜、
獄中でうけた拷問の痛手を癒すため、兵庫県の竹田で
静養していた出口日出麿は、庭におり立ち月を仰ぎながら
いつまでも、いつまでも、じっと立ちつくしていた。

聖師昇天の報に、全国の信者は悲しみの衝撃をうけた。
十九日から二十八日までの十日間、瑞祥館で毎夜
お通夜がおこなわれたが、霊柩の蓋は覆うことなく、
信者は自由にお別れすることが出来たのであった。

十日目の二十八日、霊柩の綾部移動を前に、
天恩郷での告別式が行われた。

斎場となった瑞祥館の内外は、参列者でうずまった。
この雪の舞うなかを、参列の人は庭外にあふれていた。
霊柩は、信徒の大工数人によって造った特別車に載せ、
それを曳いて、綾部まで運ばれることとなった。

これから丹波高原を寒中に徒歩にて、
綾部までの六十キロの道を踏破しようというのである。
霊柩車を曳くのは主に青年であったが、
老人も婦人も、われも われもとお供を申し込んだ。
道中が容易でないと説いても、頑として聞き入れず 

 「 途中で死んでも悔いはない  」
 
という人たちばかりであった。

上天の月が雲間から白い光をなげる三十日の深夜、
霊柩車は  しずかに 天恩郷 を出発した。

何人かが 宣伝歌を合唱し始めると、
やがて全体の大合唱となった。

  
神幽現の大聖師
  太白星の東天に きらめく如く現れぬ
  一切万事救世の 誠の智恵を胎蔵し  ・・・
 
  
Onisaburo_Deguchi_2[1] 
 
                        完