明けて明治二十六年夏のこと。
神は、「筆先で」という約束をさておき、
ふたたびなおの口をかりてきた。
そして、とほうもないことを叫びだし、
町を彷徨したのであった。
「 来年春から、唐と日本の戦があるぞよ。
この戦は勝ち戦、神が陰から経綸いたしてあるぞよ
神が表にあらわれて手柄いたさすぞよ。
露国からはじまりて、もうひと戦あるぞよ
あとは世界の大戦(おおいくさ)で、
これからだんだんわかりてくるぞよ ・・・ 」
こんどの神がかりは、いつもと少しばかり違っていた。
ようやく なおの神狂いに慣れた周囲の者も、
戦争の予言となると 慌てふためいた。
なぜ文字も読めず、ましてや政治、世界情勢など
まったく無縁のなおが こんなことを言うのか、
誰にも理解出来なかった。人々はなおをあざ笑った。
「 あほめ、今ごろ戦争なんかあってたまるかいや 」
「 ぼけの気狂い婆が、また可笑しなことぬかしとる 」
当時、この丹波の山奥の人々にとって、
外国との戦争など思いもよらないこと。
中国もロシアも遠い国であり、
東京ですら 地の果てのように思われた。
ラジオもなく、新聞は読める者の方が少なかった。
日清戦争の原因は、
朝鮮半島の支配権をめぐる戦であった。
日本は明治八年に朝鮮と条約を結び、
経済進出をはじめていた。
しかし朝鮮は当時、清国の属国であり、
清は日本の進出をおさえようとしていた。
やがて 朝鮮宮廷の中も、親中派と親日派にわかれ、
暗殺や謀反(むほん)などの騒ぎがくりかえされた。
ようやく戦争の雰囲気がたちこめたのは、
翌、明治二十七年三月のこと。
日本に亡命していた朝鮮親日派の、金玉均が
上海におびきだされて 虐殺されてからである。
八月一日に宣戦布告が発せられると、
町の人々は、なおを見る目を百八十度かえてきた。
おまけに、なおの予言どおり
まるで神の加護があるかのように、
戦局は 日本の連勝のうちに運んだ。
なおは、ついこのあいだまでの「 気狂い婆 」から
「 おナオさんに拝んでもらえ 」
と言われるようになったのである。