万象万物には、実あれば 「核」 がある。
中心があるから全体があり、聖師王仁三郎は
「 地球は天球の縮図である 」
と説き、宇宙の縮図が地球、
そして地球世界の縮図が日本国であり、
これら三千世界の立替え立直しの 「型」 として
大本がその役を担うと説いたのであった。
大本で起こった雛型が、まず日本にうつり、
日本に起きた事が世界にうつる、というのである。
筆先にも示される。
「 世界にある事変は、みな明治三十二年から
大本の内部に かた がして見せてあるぞよ 」
「 この内部のごたごたが世界に出来るぞよ
いつ大本にこういう事がありたという事を
つけとめておいて下されよ。
世界の かがみ になる大本であるから
世界にあること、雛型(かた)をして見せるぞよ 」
「 大本にあったことは必ず日本と世界に実現する
大本は世界の かた であるから、
箸のころんだ事までつけとめておいて下されよ 」
大正十年二月十二日未明。
政府当局の検事総長・平沼騏一郎
その指示をうけた京都府警察部長・藤沼庄平が動かした
武装警官隊が、大本綾部と亀岡の 神苑聖域を襲った。
この時の容疑は、不敬罪 および 宣伝法の違反である。
王仁三郎の部屋、浅野らの幹部宅や信者宅が捜査を受け
筆先、掛軸や原稿、手紙類、日記、写真、帳簿、
私物にいたるまでの 全てのものが押収された。
二代教主のすみに、捜査官は、
「 皇室を擬する 錦の御旗はどこにある !? 」
と質したが、この時すみは あきれながらも、
「 それは実物の旗ではなく、筆先に示された誓いで、
大本の経、緯の経綸の機(はた)をたとえたものです。
そんな旗やのぼりのようなものが あるわけありません 」
と答え、捜査官たちは苦虫をかみつぶし引き下がった。
王仁三郎は 大阪梅田の支部で執務中のところを検挙され
二条城北側にあった 京都監獄未決監に収容された。
王仁三郎は前々から、事件の勃発を予知していて、
その前夜、支部内の青年を呼び集め、
「 あのな、もうちょっとすると
面白い芝居があるぞ。腹を決めて見とれよ 」
といって、遅くまで御馳走を食べさせた。
この事件は、当局が大正八年以来 捜査を重ね、
「 立替え立直し 」 とか 「 大正維新 」 を 旗印 に
多くの上層階級人や有能人士が集まる事実や、
また、「 竹槍十万本を隠し持つ 」などのデマも聞こえ、
「 これは 容易ならぬ社会運動に発展するかも知れぬ … 」
として恐れ、大本撲滅の準備が極秘裡に進められていた。
ところがいよいよ検挙し、敷石をおこし、畳をはがし、
床をつついて隅々まで点検してみたが、竹槍はもとより
当局が期待するものは、なに一つ出てはこなかった。
これでは検挙の面目が立たぬ当局は マスコミを操作し、
予審終結で記事解禁となると、新聞は一斉に書きたてた。
「 国体を危うくする大本教の大陰謀 」
「 謎の大本教 」 「 淫祠邪教 」
「 国家内乱の準備行為として
武器弾薬を隠匿し竹槍十万本用意 」
果ては 女性問題まで捏造し
「 悪魔の如き王仁三郎 」
と、あくどい記事を帆走して 邪教の印象を
一般臣民にあたえることに 骨をおったのであった。
検挙から約四ヶ月後の六月十七日、王仁三郎は
百二十六日間の勾留のあと仮釈放され 綾部に戻った。
裁判は 十月五日、王仁三郎には不敬罪で懲役五年、
浅野には 懲役十ヶ月の判決が下ったが、
この判決を大本側と検事、双方が不満として控訴し、
大審院までいくが、大正天皇の崩御による大赦令で
結局は 昭和二年に免訴になることとなる。
しかし、第一審の判決から一週間目の十月十一日に
完成したばかりの 本宮山神殿取り壊し命令が出た。
命令の根拠は、明治五年の大蔵省発令による
「 無願の社寺を建立すべからず 」を引き合いにした。
これはさすがに官憲の横暴として、議会や
法曹界でも問題にはなったが 強行されてしまう。
警官と人夫の五十人余りが 破却作業にあたり、
同月二十日から一週間をついやし、信者の真心である
荘厳な神殿は、すっかり壊されてしまったのである。
時に十九歳になった三代目の直日は、こう詠んでいる
「 よしや この神の宮居をこはすとも
胸に いつける宮は こはれじ 」
この歌の通り、心の中の宮はこわれず、大本はこの中で、
次の大発展への準備が着々と進められていくのである。
事件後、当時の幹部達は多くが大本を去り
浅野和三郎は 「 心霊科学協会 」を立ち上げ、
谷口正治(雅春)は 「 生長の家 」 を創立している。