入蒙事件

  
大正十三年二月、
霊界物語の口述を 大半終えた王仁三郎は、
破天荒ともいえる、蒙古入りの壮挙を決行する。

東亜の天地を精神的に統一し、
 次に世界を統一する心算なり。ことの成否は天の時なり。
 煩慮を要せず、王仁 三十年の夢 今や正に醒めんとす …


という文句からなる、長文の手記を置いて旅立つ。

この最終の目的は、精神的な世界統一であったが、
当面は、蒙古の原野を開拓して宗教王国を建設し、
日本人、朝鮮人の人口食糧問題の解決を図り、
もって東亜の動乱を未然に防ぐにあった。

かくして大正十三年二月十三日早朝、
王仁三郎は未決仮釈放中の身上でありながら
三人の供を連れて、ひそかに綾部を抜け出し
朝鮮を経由し一路、奉天へと向かうのであった。

この時、供をしたのが、植芝盛平(のちの合気道創始者)
松村真澄(法学士)名田音吉(理髪師)の三幹部であった。

二月十五日、一行は、蒙古の英雄といわるる馬賊、
盧占魁(ろせんかい)将軍と会見する。
盧占魁は、このころ満州を支配していた軍閥の
張作霖(ちょうさくりん)と盃を交わした客分である。

盧占魁は、観相学(人相判断)に通じていたが、
王仁三郎を一目見るなり

 「 三十三相具備の菩薩相 」

であると驚き、部下になることを誓い従ったのであった。

王仁三郎はこうして、大本の紋章である日月地星の旗を
盧占魁の精鋭隊三千に授け、神軍を組織して
蒙古の平原に乗り出していったのである。

行く先々での布教は、病気を治したり、また
雨を降らしたりしながら進み、東方の聖者来たるの噂は
たちまち満蒙の民衆のあいだにひろまった。
そして、それはいつの間にか、

王仁三郎は ほんとうは蒙古人であり、
  興安嶺の部落に生まれたが、幼くして父をうしない、
  母は王仁三郎を抱いて各地を放浪するうちに
  日本人と再婚し 六歳のときに日本に連れて行かれた
  」

という話や、

王仁三郎はジンギスカンの生まれかわりである  」

といった、途方もなく飛躍した伝説にまで成長した。

しかし、当時の満・蒙・支(現在の中国)の政治状況は
極めて複雑であり、王仁三郎一行に対して
最初のうちは好意的だった張作霖も、情勢が変わり
一行の勢いの強さをみて、強打な勢力になることを恐れ
にわかに態度を変えて、ついには討伐の判断を下す。

六月二十一日夜、
王仁三郎一行は、パインタラにて討伐軍に包囲され、
すべての武装を解かれて、盧占魁は銃殺、
王仁三郎らも、そのあと銃殺と決定した。

そして、機関銃を目の前にされた王仁三郎は、
この時、おもむろに 辞世の歌を詠んだ。


 
身はたとへ蒙古の野辺にさらすとも
  日本男子の品はおとさじ

  いざさらば 天津御国にかけ上がり
     日の本のみか 世界まもらん

ところが危機一髪で突然、銃殺執行が中止される。
これは、一行が捕らえられた事を当地の日本人が知り、
すぐに日本領事館に知らせたため、
土谷書記官がとんできて 中止させたのである。

「 責付中の刑事被告人であるから 」

との理由で引き渡しを申し入れ、七月五日、
大連水上署から、ただちに内地へ送還される。
このころ日本では、すでにマスコミが この入蒙事件を
面白おかしく騒ぎ立て、報道を展開していた。

七月二十五日、
一行が下関に護送されてくると、
大勢の民衆が ワーッと群がって、
まるで凱旋将軍のように出迎えた。そして

 「 王仁三郎が満蒙でひと暴れした

という報道は、
王仁三郎の評価を一躍にして高め、政治家の中にも

 「 出口は偉大なり

という者が出てくるようになった。

このあと王仁三郎は再び獄舎に入るが、
盛んな保釈運動等にも助けられ、
十一月一日には自由の身となった。

 

入蒙記[1]