胎動と開祖昇天

 
近代日本の基礎を築いた明治時代は、
四十五年七月三十日をもって終わり、大正へとすすんだ。
王仁三郎は教団にあって いよいよ重視され、
大本の道は益々拡まっていくのであった。

大正三年五月。王仁三郎は、
信者達のいる公開の席上で 静かにこう予言をした。

いますぐ ヨーロッパで大戦争が起こる …

それから間もない六月二十八日、
オーストリアの皇太子夫婦が、ボスニアの首都
サラエボで、セルビアの一青年に暗殺された。
それから約一ケ月後の八月、第一次世界大戦が勃発。
不幸にして 王仁三郎の予言は、そのまとを得てしまった。
そして日本国は、八月二十三日、
ドイツと国交を断絶して この大戦に参加した。

この年から大本では用地買収も進み、
いよいよ本格的に、神苑が拡張されていく。
この頃、王仁三郎の陣頭指揮によって神苑内の高台に
池を掘ることとなったが、その完成までの逸話がある。

八月八日に地鎮祭が行われ、奉仕の信者達が参加し、
大勢で池の開掘作業がはじめられた。
朝早くから日暮れまで、勇ましく進められる。
ところが、屋敷地面は石ばかりで水の出る気配がない。
町の人も、大本さんは水の出ない池など掘って‥
と、笑って見ている始末である。
奉仕者が、これを王仁三郎に伺うと、

かまわん、もっと掘れ

とだけ言うのであった。
そこでさらに掘ってはいったが、数日あとに
王仁三郎が外出先から帰ってみると、
皆に頼んであっただけの仕事が出来ていなかった。
王仁三郎は、皆が飛び上がるような大声で怒鳴った。

どいつも こいつも出てうせい!!

叫び声に驚いて、老人婦人まで集まり、雪の降るなか
焚火をしながら 池掘り作業に従事したのだった。
夫人の すみ までも作業に加わったが、

なんぼ 神さまのお仕事というても、こんな真夜中にまで

と思ったという。
ところが、掘り上がったその十一月十六日、
綾部の町会議員らがやってきて、質山の水を引いて
防火用水にする工事が出来たのだが、その水路を
どうして大本の敷地内を通さないといけないので、
どうかその旨をお願いしたい、と依頼してきたのだ。

その依頼の日が、ちょうど池掘りが完成した日であった。
そしてその日のうちに、質山の水が流入して
池は 満々と水をたたえたのである。このとき、
役員、信者の感激は どんなだったろうか。

この池は、金竜海 と名づけられ、その中ほどには、
艮の金神の隠退していたという 冠島、沓島に型どった
小さい島が築かれ、もう一つ 神島 がつくられた。

この神島については、大正五年の五月のこと、
横になっていた王仁三郎の眼に、一つの島が映った。
間もなく、その島は播州高砂の沖にある
上島(かみしま)という事が判明する。

高砂市の南西沖合約六里半、瀬戸内海に浮かび
家島諸島の東端にあたる、岩の多い小さな無人島である。
古くから竜神が住むとか、いやそれは大蛇だとか、
腫々の霊異物語が 地元で伝えられている。そして、
王仁三郎の霊覚により、坤の金神 が鎮まると明かされた。
さっそく、その神霊をお迎えすべく 六月二十五日、
開祖、会長、総勢六十人の一行が上島に向かった。

王仁三郎は、島で神事を厳修し 持参した小さな祠に
坤の金神 を鎮祭して、綾部へと帰還した。
この神事の意義は、艮の金神 にたいする
坤の金神の奉迎ということで、開祖と王仁三郎の間で
お祝いの盃があげられたのであった。
大本ではその上島を 「神島」 と呼ぶようになり、
先の池(金竜海)につくられた神島に、
その 坤の金神 は奉杞された。
そしてこののち、開祖自身も驚くような筆先が出る。

みろく様の霊は みな神島へ落ちておられて、
 坤の金神どの、素戔嗚
尊と小松林の霊が、
 みろくの神の霊でけっこうな御用がさしてありたぞよ …

のちに王仁三郎が編纂する 「霊界物語」 には、

天地剖判の始めより五十六億七千万年の星霜を経て
   いよいよ弥勒(みろく)出現の暁となり、
   弥勒の神下生して三界の大改革を成就し …
  」

と示されており、筆先にある 「みろく様」 は最高神、
地の先祖に対する 「天の御先祖」 とあるから
この筆先の信者に与えた衝撃は大きかった。
以来、開祖の王仁三郎に対する尊敬は一層に深まり、
役員信者の態度も改まり、王仁三郎は活動しやすくなる。
それゆえ、この神島開きは 大本の歴史の中において、
最も注目すべき ひとコマであった。

開祖は、大正六年ごろから神苑から一歩も出ることなく
もっぱら神前に仕え、熱心に筆先を書いていたが、
大正七年の五月に入ると、その筆先がぴたっと止まった。

その理由を開祖にたずねると、

どういうわけか、このごろは神さまがお書かせになりません

と答えている。

そして終日、ご神体 や お肌守りを謹書しつづけた。
王仁三郎は、益々やさしく心を尽くして開祖に仕えたが、
ある日、建設の進む神苑の状況を見ていただきたいと、
みずから開祖を背に負って歩いた。

王仁三郎は、その憶い出を後に、歌にこう詠んでいる。

背を出せば教御祖は子のごとく 喜びてわれに負はれり
 わが御祖背なに負はれつ変りゆく 世の有様を語りたまへり
 銀髪を秋夜の月に照しつつ わが背にいませし御祖をおもふ

それでも、開祖はあとで しみじみと言った。

神苑が広くなって建物が増えてゆくことは
  誠にうれしいのですが、それより一人でも
  まことの人がでてきたら、なにかこの胸が楽になるのに …

その年の十一月にはいったころ、
その夜は大へん冷え込んだので、すみは開祖の床に
炬燵(こたつ)をいれて声をかけた。

早く おやすみなさいませ

開祖は 「 はいはい 」 と返事をして、

さあさあ、これで私のご用もすんだ。お前の言うようにするわ

と床についたのが印象的であったと、
後年になって すみは述べている。

十一月五日の夜、開祖は

今晩のお礼は誰かに代わってもらいます

と言った。

これまで、どんなに疲れた時でも
決して欠かさなかった 礼拝である。
厳冬でも神前の板の間の円座にすわり、
世界の大難を小難に、小難を無難にと、世の平安と
幸福を 朝に夕に祈りつづけてきた開祖である。

この日、開祖は

神さまは、もうお前はお礼せずともよい。
 明日からは聖師(王仁三郎)がお礼するとおっしゃる

と言って、しずかに就寝したのだった。
翌十一月六日の朝七時、
手洗いにたった開祖は、廊下で昏倒した。

王仁三郎は枕もとにかけつけ、開祖の顔をのぞきこんだ。
開祖はうすく目をあけ、王仁三郎に二言三言話しかけた。
それから昏睡の状態がつづき、午前十時半、
開祖 出口なお は、安らかに昇天した。
ときに 八十三歳であった。

昇天の瞬間、開祖の居間で祈願の祝詞を奏上していた
四方平蔵ら数人は、天上から珠をつないだ
美しい五色の紐のような霊線の降りるのを見た。

そして開祖は、麗しい姫神の姿となり
その霊線にのって 天に昇っていったという。

開祖の亡くなった瞬間、王仁三郎ははげしく泣いた。
大声で号泣した。 そのありさまは、

素盞鳴尊が青山を枯木の山にするほど激しく泣き、
 川と海を泣く涙のために吸い取ってすっかり干してしまう

                           (古事記・上巻)

ほどのものであった。

さて、開祖の日常は、ひそやかで ゆかしく、
思いやりと いたわりに満ちたものであった。
開祖と接した人は信者、未信者を問わず、
一様にその神々しさと 清純さにつよく魂をうたれた。

古刹の雲水にも似た立居のしずけさがあった。
ある芝居好きの人が、開祖の立居を見て、

あの品のよさは、どんな名優でも真似ができん

と、感嘆したという。

開祖は肌のきれいな人であった。その銀髪は
神々しく輝き、何ともおかしがたい気品に満ちていた。
いつも 苔の上に打ち水をしたような風情をたたえ、
茶の世界でいう ”和敬静寂゛そのものであり、
茶を学ばずして、類のない大茶人の赴きがあった。
そして質実剛健であった。開祖のこういう日常が、
おのずから周辺の人々を感化し、無言の導きとなって
いつとはなく、大本の教風がつくられていったのである。

また開祖は、生涯の間にただ一度も
お腹一杯の御飯を食べたことがなかった。
若い頃は貧乏のために食べられなかったのであるが、
晩年になっても、世の中にひもじい人が沢山いるのに
自分だけ腹一杯食べては もったいない、という心であり、
今一つは、世の大難を小難に … とお祈りするために
みずからに課した 贖(あがな)いの行でもあった。

明治三十八年の日露戦争の折は、神命により ただ一人で
沓島に渡って、三週間の祈願をすると言い出した。
娘の すみは、あまりの無謀に強く引き止めたが、
どうしても聞かれないので、声を大きくして

お母さんは何でも神さん神さんというて
  神さんが死ねというたら死にはるのか
  」

となじったが、それに対し、

ええ、ええ、死にますとも

といって、何とも知れぬうれしげな顔をしたという。
そういう開祖 なお であった。

deguchi_nao[1]
筆先には、こう示されている。

出口直というひと、むかしからこの世のかわりめに
   お役に立てる身魂であるから、
   苦労ばかりがさしてあるぞよ
  この世になれば、神の力にいたす取次であるぞよ
  この直は、むかしからの苦労というものは、
  この世には、まずない苦労いたした直であるぞよ
  この世の苦労が、一ばんかるいのであるぞよ
  」
                  (明治三十年旧一月十九日

十三日のあいだ食物をとりあげ、
  七十五日も寝さずに ご用さしたこともありたぞよ
  他人笑うておるあいだに、大もうなご用がさしてありたぞよ

                   (明治三十二年旧三月