大正十年十一月四日。
この日、王仁三郎は数名の信者と面会中であった。
その話の合間に、ふと目を閉じたかと思うと突然、
「 あっ、原敬(はらたかし)が やられた! 」
と叫び、信者たちは驚いた。
「 東京駅で 暴漢に襲われよった 」
「 いまですか? 」
「 いや、これからだ 」
ときの総理・原敬は、平民宰相とよばれ期待されたが
無茶な膨脹経済政策、普選法案にたいする抑圧で
大衆からの人気を失い、さらに強引な党略政治、
党勢維持のための収賄等で、連日新聞に叩かれていた。
首相 原敬 が暴漢に襲われたのは、
王仁三郎が言葉をはなってから、二時間後の事であった。
大正十二年の春、
幹部の筧清澄が教主殿で勉強していると、
王仁三郎が ひょっこりあらわれた。
「 なにをしとるんじゃ 」
「 はい、霊界物語を拝読させてもろとります 」
「 熱心やのう。けっこう。けっこう。
ところで、いまに東京で大地震がおこる 」
「 どうしてですか? 」
「 この長雨がようない 」
「 霊界物語 に示されてありましょうか? 」
「 ある …
エトナの爆発と書いて示しておいた、まえに、
東京は もとのすすき野になる
と書いて発表したら、発禁になってしもうた。
こんどは発禁にならんよう、しかもようわかるよう、
エトナの爆発と書いておいた。エトは江戸、
ナは万葉時代の言葉で地の意味じゃ。
エトの地、すなわち 今の東京じゃ 」
「 それで、時期はいつ頃でしょうか … 」
「 この秋だ、はじめが危ない 」
そして迎えた大正十年九月一日、
関東一円を 大地震 が襲った。
この時、すでに一部の人々は
「 予言が当たった 」
といって騒ぎはじめていた。
先の 「 すすき野 」 の予言は発禁になったとはいっても
広く世間には知られており、新聞やマスコミには
「 出口氏の予言的中 」
と報じるところも出てきた。
王仁三郎は九州阿蘇に居たが、ただちに綾部へ帰る。
その帰りの汽車の中でも、王仁三郎に気づいた乗客達が
「 出口さん偉い 」
「 ようやりましたな 」
と さけびだす始末 … 王仁三郎は、情けなかった。
予言が的中したと世間はいうが、こういう予言は、
むしろ的中しないことを喜ぶべきなのではないか …
的中しないと 「嘘つき」 よばわりし、的中すると
被災した人々の不幸もかまわず騒ぎ立てる。
まったく大衆とは無責任なものである … と。
王仁三郎は信者たちに、この際は慎重な態度をとり
くれぐれも、管憲を挑発することのないよう諭した。
大本の各支部には、活動は被災者救援に限定し、
いっさい、震災に関する予言を口にするなと命じた。
世間離れした論を世間に向け、
大きく掲げ過ぎることを、自粛させたのであった。