明治三十一年、丹波路に秋も深まった十月。
なおの前に一人の青年が立った。
いわんや喜三郎である。
「 八木の ひさはんから頼まれて来たもんじゃが、
艮の金神さんがかかられた婆さまはおられますかの 」
なおは、喜三郎の歳があまりにも若いのと、
稲荷うんぬんという話から、最初のうちは筆先が示す
約束の人物かどうかについて、迷ったのであった。
そのため、この時には大きな進展は見られずに
喜三郎は 一旦この場を辞したのである。
けれどその後、自分の待っていたのが喜三郎である
という意味の事が、しきりに筆先に出るようになった。
一方の喜三郎も、なおの達している悟りや筆先など、
自分の修養、達している境地にひじょうに似ている
という考えを深くし、何かしらの強い縁を感じていた。
この頃、喜三郎は園部に腰をおちつけ、
「 霊学会 」の名をかかげ布教活動を展開していた。
霊斎によって、不思議な現象が起こる。
瀕死の病人が沢山癒え、難問題が解決したり、また
近隣の、低俗な霊がかりを片っぱしから見やぶった。
こうした中、自分はあの「出口なお」と共に救世の
神業を遂行すべき運命にあることも、覚悟していた。
明治三十二年二月、
喜三郎は、なお宛てに初めて手紙を送っている。
「 神の国を建設する時期が迫っている。
自分と二人が力を合わせ事を成すべきである。
ためらわずに決起してほしい ・・・ 」
一方の開祖なおと信者達も「 筆先 」の解釈には
大変苦労しており、その真の協力者を求めていた。
そして、なおは喜三郎の手紙に対し
この 筆先 を返事として送った …
「 艮の金神の筆先であるぞよ。出口なおにかかすぞよ。
明治三十二年の四月十二日の筆先であるぞよ。
世界には、おいおいと大もうがはじまるぞよ。
この大もうあるゆえに
出口なおに明治二十五年から言わしてあるぞよ。
人民の知らぬことであるによって、
なおが苦しみておるから よろしくたのむぞよ ・・・ 」
六月に入ると
「 一日も早く この神を表に出せ 」
という筆先が出る。
なおは、側近となっている四方平蔵に筆先を見せ、
上田喜三郎を迎えに行くように頼んだ。
百姓の田植えも終わり一段落ついた四方平蔵は、
七月一日に綾部を出発。八里先の園部へと向かう。
平蔵が園部に入ると、園部川で魚とりをしていた
喜三郎にバッタリ出会い声をかけたところ、
あとで宿屋で会おうということになった。
喜三郎は 魚とり の手を休めない。サッと水の中へ
手を入れて泳いでいる魚を、つかみ上げる。
喜三郎の特技の一つであった。
宿屋に戻ると、平蔵から早速なおの依頼を聞いた。
喜三郎は腹を決めた。
そして、いよいよ綾部へ行くことを祖母や母に告げる為
穴太までの往復九里近くの道を、その夜のうちに
歩いて行き来したが、それを平蔵は知らなかった。
穴太では小幡神社に参拝すると、神の声があった
「 綾部へ行って、今後十年の間はことに苦労が多い。
蜂の室屋で、針のムシロに座らされるようなものである。
可哀相であるが、神界のため、ぜひ勤め上げてくれよ 」
園部に帰った喜三郎は、平蔵と共にその夕刻に発ち、
夜は檜山の旅館で一泊。翌三日朝の綾部へ出発前、
平蔵に、突如こんなことを言った。
「 あんたの家の裏に、
綺麗な水が湧いている溜池がありますなあ。
その池の辺りは 枝振りのおもしろい小さな松の木があり
少し右前の方の街道に沿って小屋のようなものが見える。
そこは駄菓子の店があって
六十ぐらいの婆さまが店番しているようじゃなあ 」
それは他ならぬ 四方平蔵の家の様子であった。
平蔵は 驚き隠せずに
「 あんさんはやっぱり、稲荷さん使いとちがいますか。
けど開祖さまは、稲荷さんが大嫌いなんですわ … 」
と心配した。喜三郎はそこで、
「 これは決して稲荷ではない。あんたにも見せてあげよう 」
そういって平蔵を正座させ、鎮魂の型をとらせた。
すると、ふしぎにも平蔵の目にある光景が映った。
一軒の古い藁屋があり、小さい家と涌き水の池、
カヤなどの木々があって、かなり太い。道の側は
きれいな小川が流れている … と平蔵は話した。
喜三郎は
「 今のは 穴太のわしの家や。
これは稲荷でなくて、天眼通という霊学の一つである 」
と説明すると、平蔵はあらためて感心した。
疑念が晴れた平蔵は、喜び勇んで綾部へと向かった。
午後三時すぎ、綾部に到着。そして開祖と喜三郎は
約九ヶ月ぶりに再会を果たしたのであった。
時に開祖なお六十二歳、喜三郎二十八歳の夏だった。