明治二十六年のこと、
数え十八歳になる青年喜三郎は、
廃墟になっていた亀山城で瞑想にふけっていた。
亀山城といば、あの正義の逆賊で知られた
明智光秀が居城である。
瞑想中、喜三郎は意識の中に、
見たこともないような映像が沸き上がってきた。
驚きつつもその映像に集中していると、なんと、
この城を再び建設している自分が見えたという。
そのとき、
喜三郎はにわかにかけられた声で我にかえる。
「 貴殿は旧藩にゆかりの方ですかな 」
ふと見上げると、
ひとりの白髪の老人が杖を片手に立っていた。
「 そうではおまへんが、わしの故郷ですわ。
わしは百姓の小せがれですが、
・・・ あんさん、もとはお侍はんですな 」
すると老人は
「 さよう、二百石を頂戴しておった。
しかし、ふがいないもんじゃのう。
お城も今は荒れほうだいじゃ ・・・ 」
と答えた。すると喜三郎は、きっぱりとこう言った。
「 爺さま、あと二十年
長生きしとくなはれ、わしが再建します 」
喜三郎は、この頃から
自分の将来を透視するようになっていった。
明治三十年七月、
喜三郎が父、吉松が五十三歳で亡くなった。
この時の喜三歳の落胆ぶりは、
はた目にも痛ましかった。
父は貧苦のうちに人間らしい生活の体験もなく、
一生泥まみれになって、働きあげく人生であった。
喜三郎は、そんな父が無性に不びんでならなかった。
そして限りなく虚しく、悲嘆にくれるのであった。
喜三郎は、この父の死を境にして感ずるところあり、
近隣の妙霊教会や神籠教会、大元教会などを訪ね歩く。
しかし、その虚しさを癒すどころか、形式信仰ばかりで
かえって煩悶が増すばかりであった。
これらも影響し、青年喜三郎は一時無神論にかたむいた。
そのかわり、いわゆる弱きを助け強きをくじく
…という、任侠の世界が喜三郎をひきずりこむ。
「 よし、明治の幡随院長兵衛になろう 」
そうして、人に頼まれ無頼漢を抑えようとして
派手な喧嘩になったり、仲裁をかってでたりした。
そのうち
「 仲裁は喜三やんに限るわ 」
などと煽てられて、いよいよ侠客を気どり、仕舞いには
どこかに喧嘩がおちていないか、と探すほどであった。
かくして喜三郎は父の死後、短期間のうちに十回も
悶着の中に飛び込み、助けた人には喜ばれたが
その相手からは恨みをかうことになる。
明けて明治三十一年二月のこと。
喜三郎は浄瑠璃の師匠、吾妻太夫について
みっちり稽古を積んだ成果をお披露目のため、
新年会に加わり裃(かみしも)をつけて高座で気持ちよく
絵本太功記 「 尼崎の段 」 を語っていた。
そこへ、かねてより喜三郎に恨みをもっていた
宮相撲取りの若錦が、大勢の子分をひきつれて
怒涛のごとく、どやどやと暴れ込んで来たのである。
喜三郎は高座から引きずりおろされ、胴上げのように
たちまち近くの畑に運ばれて、袋叩きにされてしまう。
弟の由松が、こん棒をもって 兄の敵 だと
若錦のところへ殴りこんだか、返り討ちにあう。
喜三郎、かぞえて二十七歳の春前のことであった。
喜三郎は、自宅近くにある「 喜楽亭 」と名づけた
自分の小屋で 頭をかかえ布団をかぶっていた。
翌朝、母のよねと祖母の宇能が心配して駆けつける。
八十四歳になった宇能は、喜三郎に諄々とさとした。
神妙に耳を傾ける喜三郎に、
祖母宇能は 切々とうったえた。
「 三十近くにもなって、物の道理が分からぬはずあるまい。
侠客だとか人助けだとかいっても、助けたよりも
十倍二十倍も人に恨まれては 何にもなるまい。
男の魂だといっているが、ナラズ者や
バクチ打ち相手に喧嘩をするのが、男の道だと思うてか 」
「 この世に神はないとか、哲学がどうのと
カラ理屈ばかりいって、そのむくいが今きたのだろう。
昨晩のことは、まったく神さまのお慈悲のムチじゃから
若錦たちを恨んではなりませんぞ。
一生の恩人と思って 神さまに御礼を申しなさい … 」
「 お前の父は、あの世からお前の行状をみて、
行くべきところへも よう行けず、
魂は、宙に迷うていなさるにちがいない。
どうか心を入れかえて、誠の人間になっておくれ 」
喜三郎は、腹にこたえた。そして心の中で詫びた。
子供の時から神さまを信じていながら、ここしばらく
神の道を忘れて、祖母や母に不孝を重ねていたことを
自覚したのである。
「 ああ、吾あやまれり … 」
悔悟の念は胸内をえぐり、身も世もあらず泣き入った。
この一瞬に、喜三郎の人生は 大転換する。