文明開化の嵐が日本国中に吹き荒れていたころ、
丹波亀岡の穴太(あなお)村では、
かつてない水飢饉に襲われていた。
村中の井戸は枯れはて、
掘れども掘れども一滴の水も出ず、
村人は疲れきってしまっていた。
その途方に暮れる村人のところへ少年は現れ、
ふと地面に耳をつけたかと思うと、
その場にすっくと立ってこう叫んだ。
「 おっさんら、そんなとこ
なんぼ掘ってもあかんで。水の筋はここや、ここや 」
しかし、連日の疲労困憊に
いら立っていた村人達は、少年に怒鳴った。
「 あほんだら、
お前みたいなガキに何がわかるんじゃ
邪魔やさけ、あっちへ行って遊んどれ 」
すると少年は
「 ああそうけ、
言うても信用せんやろうと黙っとったけど、
あんまり気の毒やさけ
教えてやったのに、えらい ソンこいたわ 」
村人達は
「 なんちゅう小憎らしいガキじゃ 」
と言いながらも、
少年が居なくなると やはり気になった。
そして少年が指した場所を掘ってみると、
こともあろうか、たちまち水が吹き出したのだった。
少年の名は、「 喜三郎 」。この少年こそ、
のちに大本聖師となる、出口王仁三郎である。
時は明治四年八月。
丹波亀岡盆地の穴太村に、喜三郎は生まれた。
父は水呑み百姓の上田吉松である。父吉松は
正直男の名を取ったが、茅屋は破るるにまかせ、
壁はこわれて骨あらわれ、床は朽ちて落ちんとする
悲惨な生活に甘んじていた。
上田家の先祖はもともと藤原姓を名のっており、
穴太村ではきこえた家柄であった。しかし、
上田家に道楽息子や極道者が続いたため、
喜三郎が生まれたころには家財はすっかり傾き、
文字通り水呑み百姓のあばら屋になりはてていた。
祖父の吉松(父と同名)という人は、これまた
大変なバクチうちで家運はますます傾く一方である。
妻の宇能(喜三郎の祖母)が
いくらいさめても聞かぬばかりか、
「 気楽に思うておれ、お天道さまは
空飛ぶ鳥でさえ養うてござる。
鳥や獣類は、明日のたくわえもしておらぬが、
べつに餓死はせえへん。
人間もそのとおり、飢えで死んだものは
千人に一人か二人くらいのもんじゃ。
千人の中で九百九十九人までは食いすぎて死ぬのじゃ 」
といって気にもしない。さらに言うには
「上田家は、いったん家も屋敷もなくなってしまわねば
良い芽は吹かぬぞよと、いつも産土の神が
枕頭に立って仰せられる。一日バクチを止めると、
すぐその晩に産土さまが現れて、
なぜ神の申すことを聞かぬか
と、たいへんなご立腹でお責めになる 」
という。
そんなわけで喜三郎がもの心ついた頃には、
昔富豪だった上田家の田畑もほとんどなくなり、
六畳、四畳二間のバラックと、わずか一畝(約百平方米)
ほどの水田があるばかりとなっていた。
その祖父は、喜三郎が生まれて間もない年の暮れ、
五十八歳にしてこの世を去る。
その臨終には、一つの意味深な遺言を遺している。
「 上田家は代々から、
七代目に必ず偉人が出て天下に名を成しとる。
孫の喜三郎は、先祖の円山応挙(江戸時代の有名絵師)
から数えて七代目じゃ。
亀山の易者に見せたら、この子はあまり学問をさせると、
親の屋敷におらんようになるが、
善悪によらずいずれにしても変わった子であるらしい。
十分気をつけて育てよ ・・・ 」