喜三郎は、神使に富士山へ導かれる幻夢の中にいた。
目が覚め気がつくと、高熊山の岩窟の中に居た。
高熊山は穴太の西南に位置し、
かつては高御座山といい出雲の裏山とともに、
神体山として崇められていた。
喜三郎は その岩窟に座し、三月初頭の寒気のなか
襦袢(じゅばん)一枚で七日の間 端座したまま過ごす。
その間に 神人感合の境地に入り、霊界をかけ巡って
宇宙の真相を悟り、ついには救世の使命に目覚める。
のちの聖師王仁三郎が著わされた 『 霊界物語 』に
この修行の模様について 記されている …
「 高熊山の修行は、一時間神界の修行を命せられると、
現界は二時間の比例で 修行させられた。
… 現界の修行といっては寒天に襦袢一枚となって、
前後一週間 水一杯飲まず、一食もせず、
岩の上に静坐して無言でをったことである。
その間には降雨もあり、寒風も吹ききたり、
夜中になっても狐狸の声も聞かず、虫の音もなく、
… 寂しいとも、恐ろしいとも、
なんとも形容のできぬ光景であった 」
たとへ狐でも狸でも、虎狼でもかまはぬ、
生ある動物が出てきて 生きた声を聞かして欲しい。
生物であったら、一眼見たいものだと
憧憬(あこが)れるやうになった。
アゝ生物ぐらゐ人の力になるものはない … 」
世界の人々を悪(にく)んだり、怒らしたり、
侮(あなど)ったり、苦しめたり、人を何とも思はず
日々を暮らしてきた自分は、何としたもったいない
罰当たりであったのか、たとえ仇敵悪人といへども、
皆 神様の霊が宿ってゐる。人は神である、否、
人ばかりではない。一切の動物も植物も、皆
われわれのためには、必要な力であり、
頼みの杖であり、神の断片である 」
喜三郎はこの修行中に、天眼通、天耳通、自他心通、
天言通、宿命通などの大要を体得する。
少年時代から相当な霊能があったが、その力は
高熊山修行において、急速に発達したのである。
「 … 汽車よりも、飛行機よりも、電光石火よりも、
すみやかに霊的研究は進歩したやうに思うた。
たとへば幼稚園の生徒が大学を卒業して
博士の地位に瞬間に進んだやうな 進歩であった 」
と記している。また、ここで
『 鎮魂帰神法 』 の大要を教示される。
※ 神霊に対するまつりは、顕斎と幽斎の二つに大別される
顕斎とは、神社や祭壇おまつりしてある祭神に対し
神饌物や祭典をもっておまつりする神事であり
幽斎とは、特定の場所や時間、祭儀などにこだわらず
神霊に心魂をまつりあわせる法をいう。
この幽斎の中に、精神をおちつけしずめる
『 鎮魂帰神法 』 がある。
この法は 全部で三百六十二法あり、大別すると
神感法、自感法(本人だけ感じる)、
他感法(他の人にも感じられる)などがある。
ある時、喜三郎の友人である斎藤仲一が、
二年ごしの歯痛に悩むという、主婦を連れて
霊力で治してやってほしいと頼まれたが、喜三郎は
「 この世の造物主、創造神に感じて この主の教えを学び
広めるのが自分の神学であり、病気治しが目的でない 」
といって断った。しかし斎藤に、
「 理屈はあとで聞く、神学や霊の威力を見せてほしい 」
と執拗に迫られ、致し方なく 鎮魂で治して見せた。
ところが、それからどっとその種の人々が押しかけ、
喜三郎は閉口してしまい、唖然とするばかりであった。
そんないきさつもあり、喜三郎は神学の研鑽
そして幽斎修行のかたわら、
病人の心霊治療も併せはじめた。
また、町村を巡りあちこちの教会を借りて
講演も行い、『惟神の徳性』 と題して、
「 日本臣民として、国家百年のための皇道を宣揚せし
この腐敗堕落した社会を洗濯するとともに、
惟神の徳性を 宇内に発揮せねばならぬ ・・・ 」
という、勇ましい主旨のものであった。