明治三十二年七月三日。
開祖なおは、喜三郎と再会するやいなや言う。
「 分かっているでしょう 」
「 はい、分かっております 」
と答えた喜三郎。この日が、聖師の大本入りとなった。
さて、大本の筆先には 「変性男子」(へんじょうなんし)
「変性女子」(へんじょうにょし)という言葉がある。
前者は、女体男霊で開祖なおをさしたものであり、
後者は、男体女霊で聖師(喜三郎)をさしている。
男子と女子の働きにより、縦と横の教えが説かれ
神の道が説かれていく、と大本ではいわれている。
なおが陰であれば、喜三郎は陽。
なおの剛に対し喜三郎の柔。謹厳実直の開祖なおと、
陽気で推進力に富んだ喜三郎のとりあわせは、
大本の前進の原動力となったのである。
喜三郎は大本入り後、教義の体系化、組織と結社、
宣伝と建設など、教団の発展に必要な あらゆる仕事を
獅子奮迅の馬力で、つぎつぎと遂行していった。
そして教団では、出口なおを教主、
上田喜三郎を会長と呼ぶことになる。
教会では 日を決めて
祭典、日々の参拝、お筆先の勉強会、
上田会長指導による教義の学習会が行われたが、
特に幽斎修行に熱心な者が増え、専門道場も開いた。
そこでは様々な神憑りが起こり、
霊魂の存在が明らかにされたが、しかしややもすると
興味本位になったり、悪霊に振り回される事もあって
『 あまり 霊学にこってはならぬ 』
という戒めが筆先に出るようになり、
騒動は鎮静していった。
かくて、明治二十五年の帰神以来 七年間、
様々な紆余曲折を経、苦労を重ねてきた開祖なおは、
喜三郎の活躍により天下晴れて艮の金神が世に出、
教えが拡まってゆくのを喜んだのであった。
やがて出た筆先に、
なおの末子すみ と喜三郎との結婚が神示される。
「 およつぎは末子の おすみ殿であるぞよ
因縁ありて上田喜三郎は たいもうなご用いたすぞよ
このおん方を なおの力にいたすぞよ ・・・ 」
「 これから出口なお と
上田喜三郎と二人で世のあらためをいたさすぞよ 」
幼い頃から十年間、
あちこちで辛い奉公をしていた末子の すみ は、
この頃に ちょうど家に帰っていた。
明治三十三年旧一月一日。
喜三郎と すみ は、四方平蔵の媒酌で式をあげた。
時に喜三郎二十八歳、すみ十六歳。
ここに大本の基礎が成り、開祖なおが経(たて)糸、
会長喜三郎が緯(よこ)糸、すみが要の役となり、
大本救世神業の錦の機(はた)が、織られる事となる。
ところが、
この婚姻を聞き付けた長女よねの夫、大槻鹿造が
錆びた刀を手に、喜三郎のところへ怒鳴り込んで来た。
「 こら、貴様はどこの牛の骨か馬の骨かしらんが、
わしが出口の長女が婿や。いったい全体、
貴様は嫁をもらったんか婿に来たのか、どっちや 」
鹿造は札付きのヤクザ者 であるが、喜三郎は、
「 そないなこと、どっちか知らんわい。
あんたは喧嘩売りにきたか。そんなら相手になろう 」
と、両肌ぬいで坐りなおした。
それを見た鹿造は あっけなくも
「 ウン、申し分が気に入った。
若造のわりに いい度胸や。わしは帰る 」
とそのまま帰ってしまう … そんな一幕もあった。
それから開祖なおには、引き続き
厳しい予言警告の筆先が出され、その中に
「 出修 」 についての神示が、度々にあった。
出修とは あちこちの霊地に出かけ神命による修行をし
神事を遂行することである。