教団の基盤づくり

 
明治三十九年。王仁三郎は、
しばらく京都、大阪を中心に活動の拠点を移した。

まず、京都の 「皇典講究所」 に入学し、
国史や国文を学び、翌年卒業。つづいて、
京都府庁の神職試験を受け、合格する。

明治四十年五月には、
別格官幣社建勲神社の主典に補され、任官する。
ところが、王仁三郎に心を寄せる連中が、
神社にどっと押しかけ、これに対し宮司は、
官幣社の尊厳を傷つける行為だとカンカンに怒った。
こんなことから、宮仕えも半年ほどに神社を去る。

この後は、御嶽教や大成教、
そして前から因縁ある稲荷講社等も渡り、
大本の教団づくりや経営のために、
その要綱を学んでいくのであった。

当時、日本政府は新たに宗教を公認しない方針にあり、
この宗教政策のもとでは、教団の独立への道は難航した。
そんな中にあり、王仁三郎は研鑽を重ね、
合法化の準備を進めていくのであった。

明治四十一年八月一日。
王仁三郎は教団に 「大日本修斎会」 の名称を付け
暮れの十二月には綾部に帰って、新たな出発をはかる。

七十五条におよぶ堂々たる会則を立て、そして
教義のほか、祭式、祝詞なども定められ、九月には
記念すべき初めての「機関誌」も、発行される。

これで教団体制は整うのだが、ただ表向きは
 「大成教直轄、直霊教会」
 の看板を掲げねばならなかった。

王仁三郎が綾部を離れていた数年の間に大本は
めっきり錆びれてしまい、財政も窮迫して
開祖の筆先のための墨代や紙代にも こと欠いていた。
ところが、お筆先には その二年前から、
 

会長がこの大本を出たらあとは
  火の消えたように、一人も立ち寄る人民なくなるぞよ
  そうして見せんと、このなかは思うようにゆかんぞよ

 
 
とあり、筆先通り、王仁三郎の不在によって
その必要性が、役員らにも実感されだしたのであった。

帰綾した王仁三郎の精力的な働きによって、
大本はとみに活発となり、信者は増えた。
出版した機関誌も当時には珍しい活版印刷で、
丹波の片田舎に起こった 「立替え立直し」 の叫びも
王仁三郎の論説と共に広く全国に伝わり、
にわかに、社会の耳目を引かずにはおかなかった。

明治四十二年からは、
いよいよ造営が開始され、十一月二十二日には、
布教所の隣に ささやかながら神殿が立つ運びとなった。

開祖や会長の病気治しや奇跡により、
信者の数も増加の一途をたどり、
教線は伸びるとともに、ますます建物の必要が生ずる。

神苑は拡張され、絶え間なく槌音がひびき、
聖域らしい形は整えられていった。
 
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さて、王仁三郎が家を建てる時は、予算を立て、
金銭の工面をしてから、始める
というようなやり方はしない。
まず、手もとの五十銭で酒を買って大工を集め、

さあこんな建物を造ってくれ  」

と、注文するのである。

金や資材、人手は、仕事が進むに従って寄ってくる。
大低そんなやり方で年中、槌音が絶えなかったのである。