大正十四年六月三十日、王仁三郎は神示により
「 瑞雲真如聖師 」 と呼ばれる。
同時に、教団活動の中心舞台を亀岡に移すことになり、
亀山城跡である 天恩郷 の本格的な建設が進められた。
そして綾部は祭祀の中心聖地、梅松苑 とされ、
二大教祖と二大聖地が 実現する。
聖師は亀岡天恩郷の建設にも陣頭指揮をとり、
一木一草にいたるまで、その配置に気を配った。
大正十五年。教団はいよいよ充実し、
聖師を訪れる人士は、引きもきらず多忙になる。
その来訪者の中に、内田良平や、頭山満などがいた。
内田良平は福岡出身。軍略家国士として一流を極め、
当時の政界でも、彼は一目も二目もおかれていた。
その内田が、初めて大本を訪れた時のこと …
まず風呂を、とすすめられるままに湯につかっていると
「 湯かげんはどうです 」
と焚き口から、火守り人が声がした。暫くの後、
その火守り人が洗い場にあがってきて、背中を流した。
ひと風呂あびた内田は座敷に通され、
身づくろいをして待っていると、やがて聖師が現れた。
内田は聖師をひと目見て 「あっ!」 と驚いた。
それはさっき焚き口にいた、そして背中を流してくれた
火守り人であったからである。
内田は聖師に深く心服し、それからはなにかと
聖師王仁三郎のために 協力を惜しまなかったという。
また、頭山満は内田の先輩挌の大国士であり、
支那革命の陣中に 大砲を引っ張って 孫文を慰問し、
このとき反対派が突きつけた銃口に
タバコの煙を吹きこんだほど、豪胆な男で知られた。
頭山満と王仁三郎の初面会は、人間と人間の
貫禄のぶつかり合いであった … といわれが、
この二人も、たちまちにして意気投合している。
(王仁三郎、頭山、内田)
聖師は、神業に対してはこの上なく真剣であるが
一面、ユーモアに溢れ どんな偉い人と会っても、
青年と会っても、その態度は変わらず奔放であった。
殺伐で凄惨なことを嫌い、「霊界物語」 も惨劇や
悲しい口述は 極力さけている。
小さな虫を殺すのも嫌であるし、魚料理も
「 姿のまま出されるのは かなわん 」
という人であった。
庭の雑草を抜くときも、
「 すまんなあ 」と謝って抜けよ … と若者を諭した。
大本の 教(のり) の
みなもとたづねれば ただ愛善の光りなりけり
( 聖師 詠 )
大正天皇の崩御があり、改元されて 昭和 となる。
やがて大赦礼が発せられ、第一次大本事件は解決、
聖師王仁三郎は、大審院にて免訴となったのであった。
聖師はただちに郷里穴太の小幡神社と、
丹波一の宮・出雲大神宮に参拝して奉告をした。
暗雲晴れて、晴天白日となった大本は活気がみなぎり、
ことに天恩郷建設には 全国から元気な奉仕者が集い
毎日のように、勇ましい槌音がこだました。
光照殿、高天閣、月宮殿、明光殿、春陽閣、秋月亭
等、次々と大小の建物が並び、
明智光秀の築城当時に勝る、偉容が現出する。
昭和六年。聖師満六十歳の祝いを期して、
教団は、総躍進の態勢に入った。
同年九月八日、王仁三郎は
「 これから十日後に
大きな事件が起き、それが世界的に発展する 」
という予言をする。
そしてその十日後の九月十八日、満鉄柳条溝において、
満州事変に発展する 鉄道爆破事件が起こった。
その憂事を背景として、十一月に、大本の全国統一組織
「 昭和青年会 」を編成し、聖師みずから会長となる。
これは服装も カーキー色制服で統一して団体訓練を行い
聖師王仁三郎直属の 親衛隊的な様相となり、
その行動は、極めて軍事色の濃いものとなった。
昭和九年三月、
「 人類愛善新聞 」の発行部数が、ついに百万部を達成。
聖師王仁三郎は、前々より
「 人類愛善新聞が百万部出たら、神軍を率いて決起する 」
と予告していた。そしてこの頃から
日本の各界要人とつながりを持つようになり、
宗教家としての枠を過ぎた、一種危険なやり方に出る。
そして代議士・長島隆二や 公爵・一条実考、そのほか
皇族の一部を含む有志とともに 「大日本協同団」 という
愛国団体をつくる案を、掲げるに至ったのである。
これには 政界、財界、学界、宗教、法曹、愛国団など
あらゆる方面の有力者から 賛同を集めたが、しかし
協同団の構想は 人事などの問題が生じたため実現せず、
最終的に、大本をそのものを母体にして
「 昭和神聖会 」 の結成に至ったのであった。
昭和九年七月二十二日、
東京九段の軍人会館で、その発会式が盛大に行われた。
参加者は会場の外まであふれ、三千人を超える反響で
当時の愛国団体としては、他に類をみない規模である。
昭和神聖会のスローガンは
「 天産自給 」 「 皇道経済 」 「 土地為本 」
の三本柱にて、統管に出口王仁三郎、
副統管に内田良平らが就任し、その下に神祇部、
政治経済部、外交部、思想教育部、遊説部、
統制部、経理部等の各機関が置かれたのである。