世界へ進出

 
約百日間の獄中生活を終え、綾部に戻った王仁三郎。

蒙古での苦労と監獄を抜けて、
当分は静養をするのかと周囲の人々は思っていたが、
その予想は大きくはずれ、
王仁三郎は ますます軒昂たる意気をもって
世界的経綸 を押し進めていくのであった。
 
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世界に一種異なる、教義、主張や伝統、歴史等をもつ
八百万の宗派を ひとからげにしよう というのだから、
その構想だけでも、大変なものである。

しかし、王仁三郎は実際にこの大仕事をまとめてしまう。

朝鮮の普天教と繋がりをもち、回教とも交流を始め
さらに 「世界宗教連合会」 の結成に乗り出す。

大正十四年五月二十日。北京の悟善社において、
道教、救世新教、仏陀教、回教、仏教、キリスト教など
世界の宗教が参加して 発会式が執り行われ、
のちに普天教やドイツの白色旗団も加わることになる。

その総本部を北京に置き、東洋本部は亀岡に置かれた。
こういう事が素早く実現したのは 言うまでもなく、
入蒙によって王仁三郎の実行力が 各宗教の領袖達に
じつに高く 評価されていたからであった。

そして、六月九日。
王仁三郎はさらに 「人類愛善会」 を設立した。

それは普遍の愛精神と、人類同胞の思想に根ざして
有形無形の壁を超えた、恒久の平和世界を実現せんとの
大理想を趣旨に掲げたものであった。
その趣意書には決意がうたわれ

「  本会は
  人類愛善の大義を発揚し、全人類の親睦融和を来たし、
  永遠に幸福と歓喜とに充てる光明世界を実現するために、
  最善の力を尽くさんことを期するものである。

  そもそも人類は 本来兄弟同胞であり、一心同体である。
  この本義に立帰らんとすることは、
  万人霊性深奥の要求であり、また人類最高の理想である。

  然るに近年世態急転して世道 日に暗く、
  人心日にすさびてその帰趨(きすう)
  まことに憂うべく、恐るべきものがある。

  かくの如くにして進まんには、
  世界の前途は思い知らるるのである。されば我等は
  このさい躍進して、あるいは人種、あるいは宗教など
  あらゆる障壁を超越して人類愛善の大義に目ざめ、
  この厄難より脱し、さらに進んで
  地上永遠の光明世界を建設しなければならぬ。
  これじつに本会がここに設立せられた所以である   」

と、このままでは世界情勢は
大変なことになるという、危機感も訴えられた。

そして同年十月一日には、
月刊 「人類愛善新聞」 を創刊し、この采配は
王仁三郎が直接ふるって、その思想を広めていく。

この人類愛善会の創立は、大本に凄まじい勢いをあたえ
世界進出の先駆けとしての大いなる役割りを果たす。

創立二日後の六月十一日、王仁三郎は宣伝使として
幹部の西村光月を欧州に派遣し、九月には早くも
人類愛善会欧州本部 が設立されている。

さらに西村の活躍によってその支部が、スイス、ドイツ、
フランス、イタリア、チェコスロバキア、ブルガリア、
ハンガリー、ポーランド、ペルシャ、スペインなど
欧州全域にわたって 設置されたのであった。

また大本沼津分所長であった近藤勝美と、近藤の親族で
信者の石戸義成により ブラジル進出も果たし行く。

ブラジルはカトリックを国教としていたため、大本や
人類愛善会の活動には、ブラジル政府の弾圧があった。
近藤や石戸らが、死刑騒ぎとまでになったのである。

これは彼等が、カトリック以外の他宗教の布教を
全面禁止している州で 数千名の信者を集め、
日本式の祭壇に 参拝させたとの理由で検挙され、
強制投獄されたのち、死刑に処すことになり、
深夜、パラナイー河橋上にて刑を執行するとされた。

この騒ぎで、信者達が鉄砲まで持ち出して警察署を囲み
近藤、石戸らを釈放しなければ、火をつけて
署もろとも叩き潰す…という緊迫事態にまでなっが、
当地の政治家や有力者が警察側に譲歩させて
幸いにも、ことなきを終えたのであった。

これらの苦難を乗り越え、やがてブラジルを中心に
南米大陸各地へと、その勢力が拡がっていった。

昭和四年には、
北米カナダに大本支部が置かれ
さらにはボルネオ、フィリピン、マライ半島、南西諸島、
そしてオーストラリアと、世界の各地に次々に
大本や愛善会の支部が 置かれていった。