艮の金神の杜

 
いよいよもって

「ふしぎな婆さんだ」

と噂されるなおは

「 こんどは露国からはじまりて
  大いくさがあると申してあろうがな 」

と予言警告したり、その他いろいろな予言があたる。
なおの周りには、いつしかその霊力をみこんだ
多くの宗教家がとりまくようになっていた。

なかでも亀岡の金光教会の大橋教師は、
綾部での教線をひらくために数人の幹部教師を
つぎつぎと派遣し、なおと同居させるのであった。
綾部に教会をつくり、なおにそこを根拠として
宣伝することをすすめたのである。

明治二十八年の一月、
なおは参拝にきた金光役員の四方平蔵に

「これを読めますかえ」

と筆先を見せた。
四方平蔵は当時二十四才、
のちに金光の大事なはたらきをする人でもある。
平蔵は筆先をけんめいに読み下そうとし、読
めないところはなおと協力して読んだ。
これが、大本の筆先の読みはじめとされる。

なおの毎日は、炊事、せんたく、掃除、
さらに使い走りにと忙しい日課を消化した。
参拝者の世話にも真心をつくし、
みなの汚れた足袋や脚絆まで洗って干した。
このような、なおの温かい心づかいと謙虚な態度は、
いよいよ沢山の人を引き寄せずにはおかなかった。

こうして綾部の教会では、なおの力で病人なども治り、
信者もますますふえていった。

しかし金光布教師の奥村定次郎は、なおの
謙虚さをいいことに、なおを使用人のように扱った。
なおがそれを我慢したのも、
いつかは艮の金神を世に出してくれるだろうと
期待していたからにほかならない。しかし、
奥村は艮の金神を逆に押し込めるような態度をとった。

なおの気持ちはどうも落ち着かない。
おおもと(大本)の神さまと金光教の神さま両方を、
おのおのにお祭りしている複雑さ。金光教では、
 「 艮の金神 」
を審神(※)できる者がおらず、金光の
 「 天地金乃神 」
よりも一段下に祭っていたのである。

※ 審神 (さにわ。神のくらいを判定すること)

なおは、とうとうたまりかねて役員の止めるのも聞かず
八木へ糸ひきにいってしまう。金光教に
隷属することは、なおにとって、また艮の金神にとって
しのびないことである と思ったのである。

八木で二十日ばかり滞在し、
ついで馬路にいって糸ひきをしていると、
うわさを聞きつけた八木の金光教会、
さらには天理教会までも、

「ぜひ一緒に神の道をひらきたい」

と申し出があった。

しかし天理教でも、艮の金神を
「天狗の霊」と審神しており、
どこの教会も我が神天下であること、
なおは耳をかさず、ほどなく綾部に帰った。

明治三十年の春。
なおは支持者達の手配により
裏町(現、若松町)の梅原伊助の倉に移った。

ここでははじめて厨子をこしらえ、八足台を置いて
「 艮の金神 」 を型の如く 奉斎した。

こうした中にあって、なおや艮の金神の信者達は、
この神の真の力となる者の出現を渇望したのである。
そんな折に、こんな筆先が出る。

「 綾部に、大望ができるによりて、
 まことの者を神が網をかけておるから、
 魂をみがきて神のご用を聞いて下されよ。
 今では何もわからぬが、
 もう一年いたしたら結構がわかるぞよ ・・・ 」

そしてこんな神示もあった。

「 この神を判ける方は東から来るぞよ 」

なおは、それからご神前に向かって
よくこんな風に言っていたという

「 神さま、そのかたが東から参られるまで、
 あなたさまと私と二人で、こうして待ちましょう 」