未決生活

 
聖師は監獄に入り、信者の中には拷問で殉教者も出た。
しかし、日本にとってもまた暗い時代の始まりだった。

大本は潰され、日本が潰れる  」

この不気味な予言を、聖師が呟くのを人々は聞いた。
日本は確実に、破局へと道をころがり始めることになる。

昭和十二年、日華事変が勃発し、
中国との戦争は泥沼へ入り込み
そこで太平洋戦略を立てたところへ、
米国は資源ルートの破壊工作をはじめる。

間もなく資源問題で退路を断たれた日本は、
海軍の暗号も何もかも解読済みのルーズベルト陰謀に
はめられ、空母もいない ほとんど無人となった
空虚の真珠湾艦隊へ 奇襲をかけることになる。
第二次世界大戦は 火ぶたをきったのであった。

昭和十年に始まった第二次大本弾圧事件は、
日本が戦争のさ中に進行し、七年にわたる裁判となった。

聖師は、京都刑務所の未決監に移送される。
この頃から、数分間の面会が許されるようになり、
葉書も隔日に一通は出せるようになる。
聖師は家族に、また信者の誰彼にも書き送った。
そして 先方からの便りも届く。


  愛とし子や 知るべの人の送る文
    我よみがへる心地するなり

                (聖師 詠)

そして、聖師は独房の中で開祖をおもう。


 わが膝に抱かれ天に昇りたる 教御祖を偲びては泣く
 風吹けば教祖を思ひ雨降れば 教え子思ふ星座の吾かな

                           (聖師 詠)

しかし聖師は、こうした中にも心は広く天地を翔け、
四季折々の山野に遊び、風光を楽しんだ。
そして頭の中で 楽焼茶盌 をひねり、
様々な色を塗って 天国の姿を描き出そうとした。
次から次へと独創的な美しい 茶盌 が生まれる。
こうして、想念の茶盌は無数に頭の中でつくられ、
後の 「耀盌(ようえん)顕現」 につながってゆくのであった。

二代教主・出口すみも、ただ一人の女性被告として
監獄での長い未決生活を強いられたが、その間
ただの一度も 人に暗い顔を見せたことがなかった。
たまに信者が面会にゆくと、

今までいろいろの修行をさしてもらったが、
  牢の修行は今度が初めて、けっこうやで

と、いかにもうれしげに話し、慰めにいった者が
反対に慰められて帰るのが 常であった。
ここに教主の、牢獄における有名な逸話がある …

膝に這い寄るボッカブリ(ゴキブリ)と仲良しになった。
ボッカブリの夫婦が、すみのもとへ毎日やってくるので、
いつも弁当を 少し残しておいてやった。
それを食べて膝の上を這いまわって帰るボッカブリ。
ところがある日、一匹だけが来ていかにも寂しげだった。
次の日も、また次の日も一匹だけがきた。
すみは、これを心配して看守にたずねた。

私のところへ毎日遊びに来るボッカブリが
 一匹見えませんが、何かお心当たりはありませんか

すると、

あ、それやったら二、三日前に廊下で一匹踏み殺されていた

と答えが返ってきた。

残った一匹は どうやら雄らしい。
すみは、その雄に話しかけてやった。

嫁さん亡くしたんか、
  かわいそうやのう。早う次のをもらいなよ

それから幾日かすると、二匹がやってきた。
後方にしたがう一匹は、恥ずかしそうにしている。

お、お前 嫁さんになってくれたんか。
         こっちへ来い、こっちへ来い
  」

するとだんだん近寄って雄と一緒に食べ物を食べ、
それからまた毎日 二匹が来て膝で遊んだ。
ところが、後に すみは控訴審のため大阪へ移された。
ある日、京都に残して来たボッカブリが思い出され、
こう呼びかけている …

 四(よそ)年を馴れなじんだ ぼっかぶり
    妻は まめなか 子らは増えたか

昭和の二十五年頃、同志社総長の湯浅八郎が、
米のシーベリー博士と一緒に すみを訪ねた。

そのボッカブリの話を
シーベリー女史は興味深く聴き、
湯浅は感動し切っていた。

昆虫学を専攻した湯浅には、特別の思いがあったらしい。
のちに、湯浅は

あの時こそ、ここに人ありと思いました  」

とその感動を語った。

窓の外の雀と話したり、
幼い頃の思い出を
童謡のような歌に綴ったり、

すみの未決生活が、そのまま 美しい詩であった。

出獄後 …
婦人看守が すみを慕って、度々 天恩郷を訪ねた。